プロローグ
今にさかのぼること千数百年、東シナ海を舞台に繰り広げられた白村江の戦いで、
倭国と百済の連合軍は、唐と新羅連合軍に敗れた。通史によれば、わが国はこの戦いの後、律令制を取り入れた
中央集権体制を整えるなど、国内政策を充実させることによって、強大な大陸国家の唐からの圧力を防ぎ、ついに
咲く花の匂うがごとき天平文化を出現させた、とされている。だが本当にそうだったのだろうか。いやしくも勝利を
手にした唐がそうやすやすと引き下がるものだろうか。
白村江の戦いの後の日本国内における著しい美術様式の変化に、唐支配を主張する学者も少なくない。また今日、
日常的に使われている漢字も公に使用が開始されたのは、この時代からともいわれている。
近年、古代の遺跡が次々と発掘され、その遺構や出土品などから、新しい事実が浮かび上がってきた。その結果、
今まで史実とされていたことが訂正されることもしばしばである。「古事記」や「日本書紀」をはじめとする当時の
歴史書は、この時代の真実を語っているのだろうか。「歴史は為政者によって作られる」という法則に則って、時の
勝者は自分たちの都合で、過去の真実の歴史を次から次へと隠蔽してしまったとも考えられる。
白村江の戦いの後、日本は唐の支配にあったのではなかろうか。いろいろな事実を総合してみると、こうした
疑念が頭の中をよぎる。以下の章では、あらゆる角度から、その時代の歴史に迫っていくことによって、真相を
究明していくことにする。
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