倭国 -その真の姿を探る-

「隋書」倭国伝の記述
 
 この時代の日本というと、聖徳太子を思い出す人も多いであろう。聖徳太子の外交政策の中でも遣隋使はよく 知られており、六〇七、六〇八、六一四年に隋に派遣されたと「日本書紀」に記載されている。
 特に、六〇七年に小野妹子が派遣されたときの話は有名で、その派遣先の隋の「隋書」倭国伝(隋の歴史書)によると、 六〇七年に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無つつがなきや云云」という国書を 持参してきた倭王の使者が、隋の煬帝ようだいを怒らせたとある。
 しかし「隋書」倭国伝には「倭王あり。姓は阿毎あめ、字は多利思比孤たりしひこ阿輩雞弥おほきみと号す。使を遣わしてけつまいる。・・・」 とあるだけで、なじみのある聖徳太子、小野妹子、推古天皇、といった名は全く見られない。
 王「阿毎多利思比孤あめたりしひこ」は聖徳太子ではないか、と学者は説明するが、これは苦しいこじつけなのではないか。 だいいち、聖徳太子は天皇ではなく、彼は摂政という立場で、天皇の代理人である。また「隋書」には「太子」も登場するが、 その名は「利歌弥多弗利りかみたふり」であり、どういじったところで聖徳太子の名とは結びつかない。 では当時の天皇である推古女帝では・・・ということになりそうだが、そうもいかない。多利思比孤には「雞弥きみ」 という妻がいるという。
 阿毎多利思比孤が聖徳太子でないとしたら・・・少なくとも「日本書紀」の遣隋使の記述に関しては、「隋書」倭国伝の記述と 合わせるためにつくりあげた、としか考えられない。
 このように「日本書紀」など当時の歴史書を、通念抜きで、もう一度研究してみると、前述の聖徳太子の存在だけにとどまらず、 当時、日本列島を統治していたとする畿内大和朝廷の存在自体にも、疑問が生じてくる。

九州王朝説
 
 「九州王朝」があったと主張する人たちもいる。
 四一四年に建てられたとする高句麗の好太王碑こうたいおうひに、倭の朝鮮出兵の記事が示されていることは よく知られている。この「倭」を、博多湾岸および周辺山地など、九州筑紫を中心に弥生時代から七世紀終わりまで栄え、独自の 外交権をもって百済と修好した「九州王朝」だとするのが彼らの説である。博多湾岸にあった都などから、自国民を徴兵して玄界灘を 越え、高句麗など朝鮮半島へ侵略していたのが、この碑文に記された「倭」の正体だったというのだ。
 また前述の「隋書」にも、「倭」が九州の王朝であることを暗にほのめかす部分がみられる。それは、倭の国土の描写の部分で、 「阿蘇山有り。その名、故無くして火起こり天に接する者・・・」という記載である。大和朝廷があった畿内大和付近には、 阿蘇山と呼ぶ火山などはない。日本地図を広げるまでもなく、阿蘇山とは九州の火山である。
 さらに、その「隋書」の中で「竹斯ちくし国(筑紫つくし国)より以東は、皆な倭に附庸ふようす」 とあることから、竹斯(九州)より東、つまり近畿などは倭の属国だったとも解釈できる。
 当時の日本列島、特に中国地方から九州にかけては、完全に一つの王朝ではなかったと考える人たちも非常に多い。 さまざまな王朝がひしめきあい、その中で各王朝が九州を支援していたという。そして畿内から西で、大陸の恐ろしさを 知っているものだけが遣隋使を派遣したわけで、その最大の目的は、貢物を持っていく代わりに、当時わが国に少なかった鉄を 輸入することだったというのが真相らしい。  このような謎めいた「九州王朝」の実体に、通史においては、この時代飛鳥にいたとする蘇我氏を当てる説がある。 蘇我氏の本拠は、九州博多であったというのだ。
 「九州王朝」と蘇我氏。この全く相反するような存在が、どうして一つのものとして重なってくるのであろうか。それは 蘇我氏のルーツを探求していくことによって、明かされることになるようだ。

蘇我氏は海をわたってきた
 
 暖流の黒潮と寒流の親潮の二つの海流が流れ込んでくる日本列島は、かつて、ユーラシア大陸などから海流に乗って やってくるさまざまな民族の坩堝だったという。
 通史では「孝元天皇の孫である武内宿禰たけのうちのすくねを始祖とし、満智まち韓子からこ高麗こま稲目いなめと続く」 とされている蘇我氏も、そうしてたどり着いた一部族であったらしい。
 蘇我氏のルーツに関してはさまざまな説があがっているが、そのなかでも、たいへん興味深い説をここで紹介しよう。
 蘇我氏の起源が、紀元前三世紀ごろインド十六王朝内に存在したアンガ国に求められるというものである。
 アンガ国は、当時インド洋の海上貿易を支配していたチャム人の国家であったらしい。彼らはそのアンガ国が倒れた後に、 インドシナ半島(今のベトナム)にやってきたという。二世紀にインドシナ半島に出現したチャンパー国が、それに当たるという。 中国の史書によると、「チャンパーの隣国の王が、チャンパーの国王は海賊だ、と訴えた」とあるので、案外彼らは広域を 支配する海賊であったのかもしれない。いずれにせよチャンパー国はその後十五世紀まで存在することになる。
 しかし、彼らのなかにはしだいに、日出づる地を求めてチャンパーをあとにする者があったらしい。貿易風によって 生ずる黒潮に乗って、彼らは種子島を通り過ぎ、九州にたどり着いた後、安羅国あんらこくを築いたという。
 海流の関係から考察して、彼らの上陸した地点は別府湾ともいわれる。その後に北九州の博多に移ったのであろう。 筑紫つくしという地名も、チャム語の「チクシ=月神」に由来するという説もある。また安羅(アンラ)という呼び名も、 恐らく「アンガ」に由来するのではないかという。こうした蘇我氏の日本到来は、三世紀の終わりから四世紀初めのことだったと思われる。
 北九州筑紫を中心に栄えた「九州王朝」。「隋書」に登場する「倭国」とその王「アメタリシヒコ」。そして、インドの アンガ国にその起源をもつ安羅国。どうやらこれらと蘇我氏の関係は、非常に密接なものであったらしい。そして、 白村江の戦いに登場してくる「倭軍」の総大将は、蘇我氏であったという可能性も非常に大きいのである。

白村江の戦い 総大将は
 
 このようにして当時の「倭国」と呼ばれていた地域に光を当てていくと、白村江のもくずと消えた「倭軍」は、 大和政権の派遣したものではないと考えざるをえない。当時、日本列島において最も強大な力をもっていたのは、 北九州の蘇我氏であったという可能性は非常に高い。「倭軍」の総大将はこの蘇我氏だったのではないだろうか。
 白村江で倭の総大将が敗れることによって、日本列島の独立性は、風前のともしびとなった。もはや抵抗するすべもない 「倭国」は、以後、唐支配を許すことになったのだと考えられる。一般に大化の改新で滅亡したとされる蘇我氏であるが、 実はこの時点で滅亡したとするのが真実ではなかっただろうか。

 西都原古墳群
 
 西都原古墳群さいとばるこふんぐんは九州宮崎県中央平野部に存在する。西都原は昔は斉殿原と書かれ、 四世紀末から六世紀後半に築造された古墳群であるといわれる。
 ここに三百基以上の古墳があり、そのうち三十二基は前方後円墳、一基は方墳、その他は円墳である。この大古墳群の中でも ひときわ目立つ古墳がいくつかあり、その筆頭が男狭穂塚おさほづかである。これは伝説ではニニギノミコト (高千穂たかちほに降臨した皇孫=天照大神あまてらすおおみかみの孫)の可愛山陵えのやまのみささぎと言い伝えられているが、 この塚は多くの謎に満ちている。
 一般には、この塚は帆立貝ほたてがい式または柄鏡えかがみ式の前方後円墳といわれているが、 慶応三年(一八六七)に郷土史家の平部きょう南ひらべきょうなんによって書かれた「日向纂記ひゆうがさんき」によると、 以前は男狭穂塚には○内の「柄」などはなかったようで、この部分は後からつけ加えたものと考えられる。これは円形部と 柄の部分の土質が違うことからも明らかである。このことについて「あやしげな尻尾をつけて、前方後円墳の変種であるかのように見せかけた」 という人々もいるが、なぜこのようなことをする必要があったのであろうか。
 この古墳群の調査は明治四十五年(一九一二)から大正六年(一九一七)まで行われたのだが、これは、わが国の学者による初の古墳調査であった。 しかし、この古墳の調査について、所管する古墳の調査を戦後になっても拒否し続ける宮内庁が、なぜ戦前に、 しかも宮崎県知事の申し出にあっさりと応えて調査をさせたのか不思議である。それも当時にしてできるかぎりの学際的なスタッフ (考古学のみならず、国史学・朝鮮史学・民族学・西洋史学・社会史学・中国史学の一流のスペシャリスト)を集めて、この古墳群の調査に当たらせていた。 その調査をやめさせたのは、なにか隠しておかなければならない事実があるのではなかろうか。もしかすると、この古墳に科学のメスが入ることによって、 これまで私たちが信じ込んでいた歴史がまったく覆ってしまうかもしれない。
 果たして、この古墳群に埋葬されている人たちは、いったい何者なのであろうか。
 場所が九州日向の地であることから、これと卑弥呼ひみこ邪馬台国やまたいこくとを結びつける説もある。しかし、 この古墳群が造られたのは四~六世紀とされ、時代的には、どうしても一致しない。一つ一つの規模はさほどではないにしても、 三百基以上の古墳を次々に造るには、多大な資金と労働力を要したにちがいない。とすると、それだけの古墳群を築造できる権力をもっていたのは、 地理的にみても、時代的にみても、九州一帯を統治していたとみられる倭国の蘇我氏ではないだろうか。

トップページへ戻る