唐進駐軍総司令官 郭務悰
白村江の戦いに蘇我氏を中心に援軍として参戦したと思われる倭軍は、惨敗を喫した。通史では、ただ単に敗北したということにとどまっているが、
唐・新羅・百済合わせて一千隻ともいわれる(「三国史記」百済本紀)大軍が集結した大規模な戦いの勝者となった唐・新羅軍が、
倭に対して何の制裁も加えなかったはずがない。「日本書紀」には記されていないが、歴史上繰り広げられたさまざまな戦争の例に漏れず、
この対戦の終了後も実は唐連合軍の支配体制が倭国に広がったのである。
その占領政策はまず、占領軍総司令官を送り込むことから開始された。その人物は唐から登用された敗戦国百済の郭務悰である。
敗戦国の人間がなぜ総司令官として派遣されたのか、と疑問を呈したくなるが、当時、唐では日本列島には有効利用できそうな資源が少ないと考えられていたため、
さほど地位が高くなかったと思われる郭務悰をあえて倭に遣わし、完全に傀儡として利用したようである。
「日本書紀」によると彼は六六四年から六七二年の間に四度倭に来たことになっており、六七三年五月に帰国してからは来ていない、とある。
ところが、これは非常に疑わしい。つまり、せっかく占領の機会を手に入れた唐がそれをわざわざ放棄するはずはなく、六六四年に
「郭務悰罷り帰りぬ」とあるが、これは実は宮殿から外出したということを意味するだけであって、彼は帰国したのではないのである。
倭国に進駐してからわずか二ヶ月で大和に入り、占領政策をすさまじい勢いで推進し、実際は占領品だけを唐に送ったと思われるのである。
以下、彼の行った占領政策を個別にみていくことにする。
武装解除
約二千名の兵を引き連れて倭に来た郭務悰は、それに援軍二千名を加えた計四千名をもって倭国の武装解除を行った。
武装解除といっても、当時の倭では加工度の高い武器は普及率が低く、進駐軍の持ち込んだ鉄矛、青竜刀といった最新鉄製武器と比較すると、
戦力の差はかなりあったと思われる。
ほかにも白村江の戦い直後、航海技術が極端に落ち込み、船の遭難率が急激に上昇していることから(五〇%ともいわれる)、
武装解除は水軍にも及んだと考えられるのである。
防衛策
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大野城市の水城 |
唐進駐軍に対する倭本国の反発はしばらく続き、各所でゲリラ部隊の反乱が起こった。郭務悰はそのような反乱に備えるべく、
築城用の巨石の運搬を命じるために積石供出命を布令し、大野城(福岡県太宰府町)、金田城(長崎県対馬)、
それに高安城(大和)とわかっているだけでも二十ヵ所に山城を築いた。
さらに、太宰府を守るために、約一・ニキロに渡って水城を設置し、ほかにも防人、烽火台をかなり広範囲に置いたと思われる。
通史には「是歳、対馬壱岐に防烽台を置き、筑紫に水城を築く」とあり、
中大兄皇子が唐の侵略に備えて防衛措置をとったかのように伝えられているが、実は郭務悰が倭人の反逆に備える意図で行ったのが真相と考えられる。
漢字の強制
占領政策の常套手段として、自らの言語を被支配国に強制することがあげられるが、まさに郭務悰がこのことを倭国に対して行ったようである。
通史では、五世紀に漢字の使用が開始されており、六世紀にかなり広まったとされている。しかし、実際には郭務悰が「則天(漢)唐字使用令」を打ち出すことにより、
その使用を強制したようである。つまり、唐の女帝、則天武后が制定したと伝えられる則天文字(漢字)にことごとく倭語を語呂合わせし、当てはめさせ、
その使用を強制的に広めようとしたのである。
この他にもヨーロッパ諸国から宣教師が世界各国に派遣され、キリスト教が流布されたのと同じ理論で、彼は先住民に対する仏教伝播にも力を入れ、
唐で使用された律令制に非常に近いものを設け、身分制度も整えた。さらに、全国規模の戸籍を作成し、倭国の人間をことごとく把握していく作業も徹底して行ったようである。
しかし、なぜこれほどまでに円滑に占領政策を推進することが可能だったのであろうか。政策自体が優れていたことは確かであるが、
それに加えてこの進駐軍を派遣したのが唐であることに最大の要因があったことを指摘せざるをえない。
つまり、当時の倭にとって戦勝国唐はあまりに強大であり、倭人が唐に抱いていた恐怖感は尋常ではなかった。その象徴ともいえるものが総司令官郭務悰ということになれば、
その存在は国家元首に勝るとも劣らない威厳を持ちえたことは想像に難くない。
ところが、当時の文献では彼がこれほどの偉業を手掛けた人物として描かれておらず、どうしても当時の他の著名な人物像が彼に重なってくることを認めざるをえないのである。
このように絶対的な地位を確立しつつあった郭務悰は、唐の傀儡であることを忘れ、やがて美女を周りにはべらせ、あまりにすべてのことを自らの思うとおりに進めすぎた。
その増長ぶりが唐・新羅にとってわずらわしい存在となり、その地位は次第に脅かされることになったと思われる。
豆知識 三種の神器
天皇家に代々伝わり、神聖なる物として扱われている三種の神器。宮中でも奥の奥に位置する三殿の一つ、
賢所に納められている(ただし勾玉を除く)これらの神器は、天皇が即位する際にしか登場しないほど神聖な物なのである。
賢所の神器は実物のレプリカなのだが、そうであっても天皇ご自身もそれらを直接見ることができないといわれている。
「古事記」「日本書紀」によれば、崇神天皇の時代に神器を宮殿から移転した後、レプリカを宮中に納めたとされており、その後、実物の鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に移されたとされている。
ところで、なぜ神器が三ヵ所にわざわざ分けて祀られたのだろうか。三種の神器は天皇家に限らず、古代における王権のシンボルとされていた。
多くの調査から、神器は神と交流する神具であり、祭政一致のシンボルであったことが判明したのだ。
そこで、王権の統一に際して、他の部族を自らの部族の中に引き入れるために、彼らの王権のシンボルを別々に祀り、その周辺を自らの陣地に包括しようとしたのではあるまいか。
そう考えてみれば、別々に祀ることに特別な意味を見いだすことが可能になる。三種の神器の配置の完了をもって、王権の統一を内外に知らしめることにもなるのである。
神器を新帝に継承する即位の儀式が史上にみえる確実な例は、六九〇年における持統天皇の即位が最初なので、(「日本書紀」)
神器が集められたのは、白村江の戦いで倭が敗れた後だとする説もある。その時期に部族国家から統一国家への変遷があったとは考えられないだろうか。
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