大化の改新はなかった

 通史によると、蘇我氏は白村江の戦いの十数年前に滅亡したことになっている。しかし、これまで述べてきたようにそれが違うとなると、 蘇我氏が滅亡したとされる「大化の改新」という事件が本当に存在したのか疑問となる。
 
大化の改新とは
 聖徳太子の没後、蘇我氏の勢いはさらに盛んになり、皇極こうぎょく天皇(女帝)の時には、蘇我蝦夷えみし入鹿いるか親子は自らの手に権力を集中しようとし、 有力な皇位継承者の一人であった山背大兄王やましろのおおえのおうを襲い、自殺に追い込んだ。こうした蘇我氏に憤りを感じた中大兄皇子と中臣鎌足は、 六四五年(乙巳いつし元年)蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした。中大兄皇子は、新しい天皇(孝徳こうとく天皇)を立て、 自らは皇太子の地位に留まり、天皇中心である中央集権国家体制を形成するために、「改新のみことのり」を出して、新しい政治の方針を示した。
 
 古代史の常識になってしまったこの事件であるが、「大化の改新」という言葉は明治時代になってから作られた言葉で、 杉浦重剛すぎうらじゅうごう著の「日本通鑑にほんつがん」(明治二十一年)という書物に初めて現れる。 「日本書紀」では乙巳の年に起こった事件なので普通「乙巳の変」と呼ばれている。
 ところが、この「大化の改新」は朝鮮の新羅で起こった事件の書き換えで、実際には行われていないのではないか、という説がある。

毗曇の乱
 
 <<登場人物>>
こん 春秋しゅんじゅう
中大兄皇子---王子
こん 庾信ゆしん中臣鎌足---重臣
 どん蘇我入鹿---有力政治家
善徳ぜんとく女王皇極こうぎょく天皇(女帝)
真徳しんとく女王斉明さいめい天皇(女帝)
 
 古代朝鮮の歴史書「三国史記さんごくしき新羅本紀しらぎほんき第二十七代善徳王(注)ぜんとくおう十六年(六四七)の条を見ると、
「十六年春正月,毗曇ひどん廉宗れんそうらは、女王ではよく国を治めることはできない、といって反乱を謀り、兵を挙げたが失敗に終わった」とある。
(注・善徳王は女帝である)
 また、真徳王しんとくおう元年(六四七)の条に
「元年正月十七日、毗曇を誅殺した。巻き添えで殺されたものが三十人いた」とある。
 これが新羅における、いわゆる「毗曇の乱」である。
 当時の新羅は、百済・高句麗により、絶え間なく侵攻されていたので、常に悩まされていた。そこで、六四三年に新羅の使者が唐の 太宗(注1)たいそう朝貢ちょうこうしたおりに、 「百済・高句麗が連合して新羅を襲おうとしている。至急に救援軍を出してもらえないだろうか。」という旨を願い出た。
 それに対し、太宗は三つの救援策を示した。そのうちの一つに「新羅は善徳王という女王統治の国だから隣国から軽視されるのであり、 唐の皇帝である太宗の一族を新羅の国王とすれば、唐の軍隊を新羅に派遣してあげよう。」という内容のものがあり、新羅の最も有力な政治家である毗曇( 上大等(注2)かみだいとうという相当な地位であった)がそれに賛同し、 多くの貴族の指示を受けて、善徳女王廃位の方向に向かった。
 そういった大等層だいとうそうの意向に反対し、善徳女王を支持していたのが王子である金春秋こんしゅんじゅう、重臣・金庾信こんゆしんらである。
 六四七年正月、毗曇らは善徳女王廃位を目指し、兵を挙げ、戦いは十数日間にも及んだ。しかし戦いの最中に善徳女王は没してしまい、一時、 金庾信ら王軍にとっては不利になるが、直ちに真徳王(第二十八代)を擁立することで優勢になり、正月十七日には毗曇ら三十名を処刑した、という内容のものである。
入鹿殺しとの共通のパターンは、時の有力政治家が女帝の権力を奪取しようとするが、王子とその重臣の連携プレーに敗れるというところである。 この二つの事件の似通っているところを表にまとめると、次のようになる。
 
毗曇の乱大化の改新
毗曇は善徳女王を廃そう
とした。
蘇我氏は皇極天皇の権力を脅かした。
金春秋と金庾信は毗曇ら大等層と対立し、金庾信は毗曇を暗殺した。中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を誅殺した。
金春秋は自ら即位せず、真徳女王を擁立した。中大兄皇子は自ら即位せず、孝徳天皇、斉明天皇を擁立した。
金庾信は金春秋と自宅前で蹴毬けまりをした。中臣鎌足は蹴毬の会(打毬うちまり)で中大兄皇子に接近した。
金春秋は金庾信の妹を娶る。中大兄皇子は同盟者蘇我石川麻呂の娘を娶る。

鎌足と中大兄皇子の出会い
 
 「日本書紀」に鎌足と中大兄が出会う有名なエピソードがある。法興寺(飛鳥寺)のつきの木の下で中大兄が打毬うちまり(「藤氏家伝とうしかでん」では蹴毬けまり)を行った時に鎌足も参加し、 はずみで脱げた中大兄の皮鞋みくつを鎌足がうやうやしく拾ったことがきっかけで、お互い打ち解けあうことになった、というものである。
 これに関しても、金春秋と金庾信が庾信の家の前で蹴毬をしている話が「三国史記」「三国遺事」に載っている。このとき金庾信は金春秋の上衣の結びひもをわざと踏んで裂くことで自分の家に連れ込み、 春秋が自分の妹とつきあうきっかけをつくったとされており、結局その後、金春秋と金庾信の妹は婚礼をあげている。
 この部分に関しても中大兄皇子は入鹿暗殺を成功させるために、蘇我石川麻呂の娘を娶り、蘇我石川麻呂を同盟者にしている。
 このように「大化の改新」と「毗曇の乱」は非常によく似ている。「大化の改新」はどうも実在のものではなさそうである。

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