中臣鎌足 -その正体とは-
わが国で起きたとされる大化の改新が架空の事件で、新羅の毗曇の乱をあてはめただけのものだとすれば、
この事件での英雄と信じられている中臣鎌足とは、一体何者なのだろうか。
鎌足は、改新政府では内臣となり、中大兄皇子(後の天智天皇)を助け、その功績をたたえて藤原の姓を賜ったとされている。
通常、彼はこれくらいの紹介のされ方にとどまっており、著名である割には意外と記録が少ない。そのうえ、大化の改新がなかったとすると、
鎌足という人物に疑問を投げかけざるをえない。果たして、彼は実在の人物なのだろうか。
彼の功績をたどっていくと彼が歴史上の他の人物に相当するのではないかと考える人は少なくない。その中には、彼が郭務悰であるとする説を唱える人たちもいる。
仮にそうだとすると、以下の点でつじつまが合うように思える。
律令制度
六六八年、鎌足を中心に近江令が編集され、天智天皇はそれを中央集権国家を作りあげる一助としたとされるが、
郭務悰も唐とそっくりそのままの律令制度を持ち込んでいる。
仏教
鎌足は興福寺の 維摩会を開いたり、長子の定恵を出家させ、唐に留学させるなど仏教信仰に大変熱心であった。
郭務悰も占領政策として仏教伝播に力を注いだといわれている。
「六韜」「三略」
「藤氏家伝」によると、鎌足は中国の兵法書である「六韜」「三略」を暗記するほど愛読し、
大化の改新の時にその知識をふんだんに使用したとされている。この書を日本に持ち込んだのは、郭務悰である。
多武峰
奈良県桜井市の多武峰の談山神社は、御神体が鎌足の木像である。この多武峰は、
倭国統治の際、郭務悰が最初に山砦を築いた土地ともいわれており、郭務悰のゆかりの地である。
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