帰化人と日本のユダヤ人
前章に記載の年表によると、西暦二八〇年から五百年の間に帰化した外国人の数は、数万人から十数万人前後に達するのではないだろうか。
そのころ、日本の人口は二百五十万人から四百万人ぐらいと推定されるので、帰化人の割合は、三%〜五%、あるいはそれ以上に達したと思われる。
例えば、応神天皇十四年(二八三)に弓月君の一統が日本へ帰化している。
これは秦の始皇帝に万里の長城建設の苦役を強制され、それに耐えきれず、逃げて遼陽を経て朝鮮半島に入り、日本へ渡ろうとした。
ところが、あまりにも大勢であったため、日本に救いを求めてきた。
そこで天皇は葛城襲津彦を派遣したが、苦戦しつつ三年後にこれを救い、その百二十七県民、九十二部族、一万八千六百七十人が日本に渡来した。
この弓月君は王族の出であって、ユダヤ系であったと思われる。即ち、日本に在住している者と同族であったので、日本からも救いの手を差し伸べたのである。
(秦の始皇帝はユダヤ人であったかも知れないという人もある。)
その後、日本に渡ってきた秦氏系、即ち、ユダヤ系の人たちは、近江国(滋賀県)、三重県、山梨県、関東方面にも広がって、
西暦五四〇年ごろには、七〇五三戸にも達したといわれているから、その人口は少なくとも三万人に達していたと思われる。
このように、帰化人が多かったので、嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)に、日本の豪族、千百八十二姓を、
神別、皇別、蕃別(帰化人)の三種に分けた。
その始祖、家系、由緒を明らかにした「新撰姓氏録」によると次のとおりである。
漢 族 |
秦韓王系 | = | 太秦、秦、己智、三林、長岡、山村、高尾 |
漢 帝 系 | = | 桑原、檜原、下、若江、田辺、谷、豊岡、八戸、高安、高道、春井、武丘、河内 |
周 王 系 | = | 山田、志賀、長野、三宅 |
魏 帝 系 | = | 上、筑紫、平松、河原、野上、河内 |
帯 方 系 | = | 木津、丹波、檜原、山口、平田、谷、桜井、栗本、西 |
呉 人 系 | = | 松野、祝部、額田、刑部 |
漢 人 系 | = | 大原、吉永、交野 |
そ の 他 | = | 山代、清川、大石、高村、錦織、大川、物集 |
百済系 |
百済王系 | = | 津、石野、菅野、宮原、三善、岡、広津、不破、高野、岡屋、広井、原、岡原、古市 |
百済人系 | = | 高槻、広田、林、神山、香山、小高、百済、広海、麻田、大石、杉谷、坂田、波多、三野、山河、信太、芦屋、大友、新木、長田 |
これらの帰化人たちは、非常に有能な技術者や芸術家も多く、そうでなくても当時の日本人より文化人であった。日本は、これらの人々の影響によって、天平時代に大改革を行い、諸制度は更新し、民心も向上し、大いに文化を発展したのである。
それは隣国、唐の文化を輸入したことにもよるが、帰化人の影響に負うところは大であった。従って、奈良朝時代の上流社会の三〇%は帰化人とその家族で、朝廷においても帰化人たちが大いに幅を利かせていたとみられている。
正倉院にある豊前(福岡県)の戸籍表を見ると、仲津郡(現在の行橋市の一部と京都郡豊津、犀川地区)の人口、四百四人中、大陸渡来秦氏系住民は三百七十七人(九四%)、
上三毛郡(現豊前市、築上郡)の人口、百三十一人中、百二十七人というように、ユダヤ系渡来人は当時の辺境に分散し、開墾などしていたのであろう。
今の滋賀県方面にも、相当多数の帰化人が入植し、かなりの勢力に達していたと思われる。そこで、信楽宮だとか、近江宮だとか、朝廷を滋賀県に引っ張り込んで都を建てようとしたのも、民族的な一つの行き方の表れであったと思う。
そのような見方で奈良の都を見ると、あれだけ大きな構想の下に、都市建設が行われたにもかかわらず、僅か七十何年間をもって都造りを中止し、京都へ遷都された原因にも、何か理解しがたいものがあるように思われる。
史家は、時の経済事情から移転を余儀なくされたと説く人もあり、朝廷内の内紛によるという人もあり、宗教問題ともいうが、そこに潜むものは、民族的な理由によるものではなかろうか。
ある一説によると、そのころの京都では、ユダヤ系である秦河勝一族は、大変な経済力と勢力をもっており、天皇を京都へお招きしたので平安朝が始まったと主張する人がある。
奈良の都造りで、あれだけの建設を行ったから、朝廷の経済は逼迫した。民衆は塗炭の苦しみを味わった。そこに民族的軋轢を生じた。
かつまた、上流社会にも種々の勢力争いが重なり、天皇一家も嫌気がさして秦氏の応援によって、西京でもう一度立て直そうと取り組むことになったのが、奈良を捨てて平安京に移った原因であるとすると、これまた考えられないことでもない。
あるいは、新羅系と百済系との争いの結果であろうか。
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