仁西上人と十二坊の謎

 大和国吉野河上高原寺やまとのくによしのかわかみこうげんじの住職仁西上人にんさいしょうにん熊野権現くまのごんげんの告を得、ここに来り、温泉を再修し、程なく功を奏せしかば、大和吉野の河上の民を誘い来り、薬師の十二神将を表して十二坊舎を建つ。
「有馬郡誌」より
 
仁西上人
 有馬は、六甲山の山崩れのため、百年近く放置されていたものを、熊野神のお告を受けた吉野の高原寺(現在は、源福寺げんぷくじ)の住職仁西が、十二人の僧を従がえ有馬へと入り、復興したものとされている。
 しかし、仁西が復興する以前に、大治だいじ三年(一一二八)には白河法皇しらかわほうおう安元あんげん二年(一一七六)には後白河法皇ごしらかわほうおう建春門院けんしゅんもんいんがこの地を訪れたことが、歴史に残るのである。 すなわち、ある程度の施設が存在したと立証される。
 時の最高権力者が訪れるということは、単に小屋掛の山の湯であるとは考えられない。
 この仁西上人という人物は、何者であろうか・・・。
 仁西は平家出身の僧であり、有馬へと伴った十二名も、吉野での源氏による平氏の落人狩おちゅうどがりの手から、命からがら逃げた者達である。 十二坊舎を建て、それを隠れみのとし、坊主に身を変えることで生き長らえたことが、真実であろう。
 この時代、有馬へは、平家の落人以外にも多くの人間が移り住み、有馬の人口は二万人もあったようである。
 このことからもこれほどの人口を収容するために、十二坊が必要であったことが理解できる。
 平家の落人以外で、有馬へと移り住んだ代表とされるのは、平清盛が、八瀬やせより、毛色の違う者達を移り住まわせたことや、 吉野で吉野彫りなどを職業としていた木工師の「木地師きじし」(サンカ)などである。
後世の湯女と湯治客
 仁西は、十二坊それぞれに、「湯女ゆな」と称する者達を置いた。湯女とは、白衣紅袴の装束で、歯を染め、まゆずみを描き、双六や囲碁の遊びや、その他に、 琴を弾じ和歌を詠み、今様いまようを唄い、舞い、高位の公卿くぎょう達を楽しませた女達である。
 これらの職業は、平家女子の隠れ蓑のひとつであったのかもしれない。
 以上の様な、湯女や白拍子しらびょうしで遊ぶ権力者などの姿が、有馬温泉の歴史であろう・・・。
 仁西が、有馬へ伴った十二人中には平家の主要人物も存在したのである。
 その事柄については、次の章で説明しよう。
 
豆知識 神戸の厳島
 平清盛が、安芸宮島の厳島神社を厚く信仰したことは有名である。海洋民族の守護神とされる宗像むなかた三神を祀っており、 「いつく島」とは神がいつき祀られる島のことである。が、神戸にも厳島神社があった。福原遷都せんと、 兵庫開港を行い、福原京の周り七ヶ所に厳島神社を勧請かんじょうし、祀った。
 そして、明治十年に温泉神社に併祀へいしされたものの、この有馬にも厳島神社がある。平家の氏神ともいえる宗像三神を祀っていることからも、有馬が平家の落人村であったことがうかがえる。
 
豆知識 都の白拍子
 白拍子は、水干すいかんに袴姿の男装で、つづみを伴奏に雑芸をうたいながら舞う「男舞」である。 平安末期に急速に盛んになった。平清盛と仏御前、源義経と静御前など、悲恋物語は有名である。 その芸は、京の貴人にもてはやされる高度なもので、その優劣が容色とあいまって、貴人の寵愛ちょうあいを受けるに至った。 芸と売色が密接な関係にあり、鎌倉時代の公卿の中には白拍子腹も少なくなかった。

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