平家落人伝説

平維盛の出家
 平維盛たいらのこれもりは、重盛しげもりの長男で平家本流の後継者になるべき立場にありながら、平家が屋島に逃がれて陣営を固め始めたころ、武門を抜けて出家した。 寿永じゅえい三年(一一八四)三月二十八日、平家全滅より一足早く、熊野灘で入水じゅすいしたと伝えられる。
 しかし、熊野にはひじりの苦行の一種で、「補陀落渡海ふだらくとかい」という、入水の形をとる焚身捨身ふんしんしゃしんの伝統があることから、 死ぬ真似をする儀式のあとは別人として生きのびたという説もある。確かに、海洋民族といわれる平氏が水で死ぬのはおかしい。
 維盛は吉野の木地師きじしの中に入り込んで生きていたという説がある。吉野を選んだのは、同じ平家出身の仁西にんさいがいたからであろう。
 維盛の嫡男で、正盛から数えて六代目であることから六代御前と呼ばれる平維清たいらのこれきよは、平家滅亡後まもなく北条時政に捕らえられ、処刑されかかったが、 源頼朝の絶対的信頼を得ていた神護寺じんごじ文覚もんがくが助命運動を展開し、その弟子として預けられることを条件に処刑をまぬかれた。 法名ほうみょうを、妙覚みょうがくという。
 「吾妻鑑あずまかがみ」に見られるように、頼朝は妙覚の生存が常に気がかりだった。十数年後に、文覚が失脚すると、幕府は直ちに妙覚を捕らえ鎌倉に送る。 そして妙覚はついに処刑され、「それよりしてこそ平家の子孫はながくたえにけれ」と平家一門の最後を締めくくるのである。逗子ずしには今もその墓が残るとされる。

 だが、処刑された妙覚は替え玉で、本物は円通えんつうと名乗り、仁西と共に有馬に移っていたとのことである。 さらに後年、垂水たるみず転法輪寺てんぽうりんじを何度か訪れたと記録に残る西尊せいそんという僧は、円通の後の姿でなかろうか。
 では、西尊は何のために垂水を訪れたのだろうか。それは、安徳あんとく天皇に会うためではなかっただろうか。
 
豆知識 平維盛
 平重盛の長男、清盛の孫にあたる。その姿が美しかったので桜梅少将さくらうめしょうしょうと呼ばれ、舞の名手であった。
 源頼朝と富士川に対陣した時、水鳥の羽音に驚いて敗走した。ついで、木曽義仲を討とうとして礪波山となみやまに敗戦。西国に落ちた。
 寿永三年(一一八四)、屋島の陣屋を逃れて、数人の家臣と高野山をめざし、東禅院とうぜんいんの知覚上人(高野聖)を頼って出家した。 のち、熊野に入り、熊野沖で入水自殺したという。
 
豆知識 文覚
 平安末期から鎌倉初期にかけて生きた真言宗の僧。俗名は、遠藤盛遠えんどうもりとおといい、もとは北面の武士であった。 十八歳の時、誤って袈裟御前けさごぜんを殺してしまったため、後悔して出家したといわれる。
 治承じしょう(一一七七年~八一年)のころ、高雄山に登り、荒廃した神護寺じんごじの再興を志し、後白河上皇に寄付を強要したため、伊豆(静岡県)に流された。 そして、この地で、同じく流されていた源頼朝と親しくなり、後白河上皇と頼朝の連絡係となり、挙兵を推めた。
 その後、後白河上皇と頼朝の援助によって、神護寺を復興した。
 頼朝の没後、源通親みなもとのみちちかの謀議に加わり、佐渡国(新潟県)に流され、後に、対馬(長崎県)に流された。生没年は未詳。

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