平家滅亡の謎

安徳天皇
 壇ノ浦の合戦で滅亡したとされる平家には、各地に様々な落人伝説が残る。捕虜となって処刑された主要な数名以外は入水したことになっているが、 いずれも生死未確認のまま何の追討命令も出されず、文字通り歴史から消えてしまったのはあまりにも不自然である。 実際は、船で逃げた平氏が何万人も九州に上陸していたようだが、頼朝は、この報告を受けていながら、追討命令を出さなかった。

 八歳で入水した安徳天皇についても、様々な生存説が残るが、実際は部下の子供を身替りに立てて入水させ、本物は少数の側近と共に垂水たるみずの山に逃げのびた。 海に沈んだと見せかけて、裏をかいたわけである。
 本拠地となった垂水の転法輪寺てんぽうりんじには、安徳天皇を中心に数千人の平家が坊主や尼に身をやつし、源氏の目を欺いて生活していた。 妙覚みょうがくから円通えんつう、 そして西尊せいそんと名乗った六代維清これきよは、安徳天皇と連絡をとるために、有馬から何度も足を運んだのである。
 垂水が平家落人の本拠地でありながら、長年知られずにすんだのは、有馬が派手に目立ったことが一役かったのであろう。
 その後、安徳天皇は四十二歳ころまで生きていたが、ついに、源氏に発見され、天皇以下全員、自害して果てたということである。 なお有馬は、源氏に攻め込まれることなく、その後も温泉地としてにぎわい、後年にはサンカと合流して豊臣秀吉の隠れ湯にもなった。
 
 

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