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源氏の紋章 |
![]() 義経は、頼朝とは腹違いの兄弟であり、平治の乱で父の義朝が討ち死にしたが、幼少であった義経は助けられ、
その後、奥州の藤原秀衡のもとで少年時代を過ごす。
頼朝が平家打倒にたちあがった事を知り、これに協力する。平家との戦いでは、連戦連勝し、平家を滅亡へと追いやり、武将としての優れた力を発揮した。 しかし、頼朝との不仲により、追われる身となり、再び秀衡のもとに身をよせたが、秀衡の死後、秀衡の子(泰衡)などの裏切りにより、殺された。 |
![]() 頼朝は、父(義朝)が平治の乱に敗れた際、一度は平家に捕われたが、平清盛の継母、
池禅尼に一命を助けられ、伊豆で源氏再興の機を待った。そして、治承一年に、
伊豆地方の豪族で平家の家来である北条時政の娘、政子を妻に迎えた。
治承四年、以仁王の命により、兵をあげ、平家打倒に出発する。 また、弟の範頼、義経に義仲を討たせ、ついで平家を攻め、そして勢力を持ちはじめた義経を討ち、 九州に鎮西奉行を置き、全国統制を完了させた。 建久三年、征夷大将軍に任ぜられ、武家政治の名実を備えるのである。 正治元年、相模川の橋供養の帰途、落馬した後、溶体が悪化し、五十二歳で死去したと伝えられる。 |
![]() 義仲は、木曽の山奥で乳母の一族に育てられ、死ぬまで巴御前をはじめとする乳母一族に守られていた。
頼朝と並んで、平家打倒に立ち上がり、豪快な戦術で平家を破り、京都へ入ったが、天皇や公家は、山育ちで乱暴な義仲を嫌い、頼朝に、 義仲を京都から追い出す様に命じるのである。 義仲は、頼朝の命令で上京してきた義経の軍により、殺された。 |