源氏

源氏の紋章
 平家にとっての宿敵であった「源氏」の紋章は笹竜胆ささりんどうであるが、この時代、日本に竜胆はなく、ほとんどが、モンゴルに自生していたと思われる。 このことから源氏のルーツは、モンゴル(げん)系であることが理解できる。現在では、源(みなもと)と呼ばれるが、その当時は、源(げん)と呼ばれていたであろう。 平家の平(たいら)も、ペルシャを意味することから、平(ペイ)と呼ばれていたと考えられる。すなわち、源平の戦いは、いわゆる、民族対民族の戦いであった。
 歴史上では、壇の浦の戦いにより、平家滅亡とあるが、何万もの兵が一度に消えるはずがない。
 一連の戦いに敗れ、生き残った少数の平家の一部は、垂水たるみず有馬ありま、九州などに流れたと思われる。 しかし何故、頼朝よりともは平家を深追いしなかったのであろうか。
 頼朝が、一番恐れていたものは、衰えてしまった平家ではなく、頼朝の地位に近く、また、力を持っていた、同じ源氏の義経よしつねではなかろうか・・・。
 
豆知識 ー源 義経ー
 義経は、頼朝とは腹違いの兄弟であり、平治へいじの乱で父の義朝よしともが討ち死にしたが、幼少であった義経は助けられ、 その後、奥州おうしゅう藤原秀衡ふじわらひでひらのもとで少年時代を過ごす。
 頼朝が平家打倒にたちあがった事を知り、これに協力する。平家との戦いでは、連戦連勝し、平家を滅亡へと追いやり、武将としての優れた力を発揮した。
 しかし、頼朝との不仲により、追われる身となり、再び秀衡のもとに身をよせたが、秀衡の死後、秀衡の子(泰衡やすひら)などの裏切りにより、殺された。
 
豆知識 ー源 頼朝ー
 頼朝は、父(義朝)が平治の乱に敗れた際、一度は平家に捕われたが、平清盛たいらのきよもり継母けいぼ池禅尼いけのぜんにに一命を助けられ、伊豆で源氏再興の機を待った。そして、治承じしょう一年に、 伊豆地方の豪族で平家の家来である北条時政ほうじょうときまさの娘、政子まさこを妻に迎えた。
 治承四年、以仁王もちひとおうの命により、兵をあげ、平家打倒に出発する。 また、弟の範頼のりより、義経に義仲よしなかを討たせ、ついで平家を攻め、そして勢力を持ちはじめた義経を討ち、 九州に鎮西奉行ちんぜいぶぎょうを置き、全国統制を完了させた。
 建久けんきゅう三年、征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任ぜられ、武家政治の名実を備えるのである。
 正治しょうじ元年、相模川の橋供養の帰途、落馬した後、溶体が悪化し、五十二歳で死去したと伝えられる。
 
豆知識 ー源 義仲(木曽 義仲)ー
 義仲は、木曽の山奥で乳母めのとの一族に育てられ、死ぬまで巴御前ともえごぜんをはじめとする乳母一族に守られていた。
 頼朝と並んで、平家打倒に立ち上がり、豪快な戦術で平家を破り、京都へ入ったが、天皇や公家は、山育ちで乱暴な義仲を嫌い、頼朝に、 義仲を京都から追い出す様に命じるのである。
 義仲は、頼朝の命令で上京してきた義経の軍により、殺された。

トップページへ戻る