高野聖

 高野山から出て全国をまわり、仏教を広めた宗教者をいう。
 一般的に「ひじり」とは、半僧半俗の下級僧侶を呼ぶ。高野聖の史料や遺物はほとんどないが、 全国をまわって(注)勧化かんげ、唱導、宿坊、納骨等で高野山の台所をささえる階級であった。 平安時代末期から鎌倉時代末期まで二五〇年の間、高野山での中心的存在であったが、次第に地獄に落ちない引導袈裟いんどうけさを売ったり、 盗品の仏像を売るなど世俗化一辺倒になり、世間の顰蹙ひんしゅくを買うようになっていった。徳川時代、 高野聖の真言宗帰人が命じられ、いわゆる遊行回国の高野聖の姿が世間から消えていった。
 「聖」と今では文字を当てるが、「ヒシリ」はアラビア語の宣教僧、ペルシャ語では宣伝のふれこみ屋という意味である。 仏教の本場のミャンマー、カンボジア、タイ国の托鉢僧は、炎天でも絶対無帽なのに、高野聖が暑い中でも編笠をかぶっていたのは、 青い目を隠すためだったのであろう。また、この聖が各地に出廻ったのが源平合戦の後であることから、平家落武者が聖になったと考えられる。

 (注) 勧化---信仰をすすめて金品を集める
唱導---宗教的説話の説教
宿坊---高野詣をする人の宿の世話
納骨---野辺の白骨や委託された遺骨を高野山へ運ぶ

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