平清盛の出生の謎

 平清盛の出生は謎めいている。父・忠盛と血がつながっていなかったのは確かなようだ。
 「平家物語」には、平忠盛が妖怪退治の褒美に白河法皇の寵愛を得て懐妊していた祇園女御を賜り、生まれてくる子が 男だったら立派な武士にせよと言われた。とあり、母は祇園女御で白河法皇の落胤という説が有力である。
 清盛の父親が白河法皇であることは間違いない。さもなくば、清盛の驚異のスピード昇進はあり得ない。
 法皇の実子だからこそ太政大臣にまでのぼりつめたのであろう。
 だが、祇園女御が忠盛の妻となった記録はなく、白河法皇が崩御するまで側近く仕えていたことが明らかである。
 では、清盛の生母はだれか。
 藤原宗忠の日記「中右記」には、白河法皇に仕え、のち忠盛の妻となったが、清盛が三歳の時に死んだという女性の ことが書かれている。
 また、滋賀県胡宮神社に伝わる「仏舎利相承系図」によると、祇園女御の妹が、姉と同じく白河法皇に寵愛をうけ、 懐妊したので忠盛に下げ渡され、男子が生まれて清盛と名乗らせた。さらに祇園女御が清盛を猶子にしたとある。つまり、 清盛の生母は、祇園女御の妹で、その後亡くなったので清盛は祇園女御の養子になったようである。
 清盛は父、忠盛を追い抜く勢いで昇進し、参議からは、わずか八年で太政大臣に昇りつめたが、一一八一年に熱病に より死亡、四年後には平家滅亡を迎えたのである。
 以上、平家滅亡の隠された歴史についてふれてきた。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の賊軍は、歴史に残ることはない。しかし、常識で考えても何万といた平氏軍が一時に 死に絶えるということはありえない。そこには隠された歴史がある。
 歴史に名を残さないものとしては、この他、漂泊の民サンカの存在も思い出される。
 次からは、サンカについて詳しく説明しよう。

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