豊臣秀吉の隠された歴史
 |
豊臣秀吉 |
有馬温泉は、豊臣秀吉の湯として有名である。秀吉は、安土桃山時代の武将であるが、実は初名を木下藤吉郎と称したサンカであろう。
天下を我がものにしようと、大きな野望を持った秀吉だけに、周囲にも敵が多く、命を狙われて当然である。
秀吉が、この有馬を、休養の地とし、ゆったりと温泉につかることができたのも、周囲のサンカに守られていたおかげであろう。
しかし、天皇の位を望み、自分の身分が知られることを恐れた秀吉は、それまで手となり、足となり働いてくれたサンカ達を、
無情にも三千人以上殺すのである。
豆知識 ー本能寺の変ー
織田信長に仕えながら、着々と力を貯え、勢力を増した秀吉は、目ざわりな信長を殺すため、明智光秀を呼び出し、又、別の場所で信長を殺した後、
光秀が謀反を起こしたと見せかけて、光秀を殺すことにより罪をかぶせ、証拠を消してしまった。
この事件が「本能寺の変」の真相であろう。いつの世も、勝者が、歴史を書きかえるのである。
|
 |
千利休 |
豊臣秀吉との交流があつく、同じサンカの出身である千利休は、千家流茶道の開祖であり、
草庵風の茶室を完成させ茶道を大成させた茶人として有名である。
現代では、利休と書かれているが、本来は理休が本名であった。
利休という名の由来は、茶の湯の世界で大変な勢力を持ち、大きな利益をあげたことにより、周囲の人間が皮肉り、
理休ではなく利休であると言ったという説もある。
歴史では、天皇より利休号を与えられ、天下一の地位を占めたが、後に秀吉の怒りにふれ、切腹したとされているが、実際は、
秀吉によって一方的に死に追いやられたサンカの一人である。
 |
徳川家康 |
以上のことにより、秀吉に反発するサンカ達を、うまく味方につけることによって天下を奪ったのが徳川家康である。
豊臣家は己の欲、地位や名誉のために結局は、仲間の裏切りにより、滅亡するのである。以上のことで、サンカが大きな影の力として歴史を動かしていたことがわかる。
豊臣秀吉の素性
三角寛が但馬田地火の但馬多治彦から聴いたサンカの「血絶史伝」の中で特に興味あるのは、
戦国時代、豊臣秀吉に包囲殲滅された因幡の北山城にまつわる話である。
木下藤吉郎(秀吉)の父親弥右衛門は、「樹蔭(隠密武装集団)」を「木下」と変えたサンカの出で、箕作り、簓削り、茶筅作りはいうまでもなく、
彼らの修行地であった丹波で、軽身、忍び、逆撫(相手を失神させる術)など更に国見、物見まで修行した。
その流れを汲む者が藤吉郎の一味に加わって城攻めに働いたという。
しかし、秀吉は自分の素性が箕作りサンカであったことを、ひた隠しに隠して家筋を飾り暴露を恐れた。そして、懐柔できなかった者をことごとく殺していた。
つまり、秀吉が最も恐れていたのが、因幡多治比郷の北山城主、丹比孫之丞であった。秀吉は彼を攻める途中、丹波、丹後で六百余人、因幡、伯耆で中国征伐と称して六百余人を殺し、
生涯を通じて自分の素性のばれるのを防ぐために、随時殺したサンカの数は三千余人に及んだという事が、サンカ社会に伝承されている。
|
トップページへ戻る