聖書とキリスト教
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エルサレムの神域 |
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イスラエル 旧約聖書地図 |
四千年の昔、人類最初の文明が栄えた中近東の片隅で、一人の遊牧民が故郷を去って見知らぬ土地に住むという、
ごく当たり前の出来ごとが起こった。
その人の名をアブラハムといい、移住先は「カナン」と呼ばれる、当時の文明都市から遠い一地方であった。
アブラハムは、神の命令によってカナンに導かれ、諸国民の父となるとの約束を得ていた。しかし彼は一生その地の荒野を流浪しつつ、
生涯を閉じた。だがそれで終わらず、後の人類の歴史に大きな影響を及ぼすことになる。
アブラハムの子孫は、やがて一つの民族となり、民族の歴史を通して父祖の信仰を守り育て、一連の書物に綴った。
その書物とは「聖書」であり、その民とはイスラエル民族、またの名をヘブライ民族あるいはユダヤ民族という。
紀 元 前 |
一九〜一七世紀 | 族長アブラハム、エジプトからカナンに移住する |
一七〜一六世紀 | 族長ヤコブの子ヨセフ、エジプトで宰相となる。ヤコブの一族エジプト移住 |
一二七〇 頃 | モーゼの率いるイスラエルの民、エジプトを脱出 |
一〇二〇 | サウル、イスラエル初代の王となる |
九九九 | ダビデ、エルサレムに都を移し、全イスラエルの王となる |
九二二 | ソロモンの死後、イスラエルは二王国に分割される |
七〇〇 頃 | ペルシャにアケメネス王朝興る |
五八八 | イスラエルの王国滅ぼされ、民は捕囚される |
五三八 | ペルシャ王により、ユダヤの捕囚民帰還される |
三三二 | ギリシャのアレキサンダー大王、パレスチナを征服 |
六三 | ローマ帝国によるユダヤ支配の始まり |
四 頃 | イエス・キリスト誕生 |
紀 元 後 |
三〇 頃 | イエス・キリスト処刑される イエスの弟子たちを中心に原始キリスト教が生まれる |
六六 | ローマの圧政下に、ユダヤ人の反乱始まる |
九〇 頃 | 聖書の正典化なる |
三一三 | コンスタンチヌス帝、キリスト教公認 |
三八〇 | キリスト教、ローマ帝国の国教となる |
四七六 | 西ローマ帝国亡ぶ |
九六二 | 神聖ローマ帝国成立 |
一〇五四 | ローマ・カトリック教会、東西教会に分裂 |
一五一七 | 宗教改革、ルター意見書提出 |
一五四九 | フランシスコ・ザビエル来日 |
一五六二 | ユグノー戦争起こる |
一五七二 | 聖バルテミーの大虐殺 |
一五八七 | 豊臣秀吉バテレン追放令 |
一六一三 | 江戸幕府禁教令発布 |
一九四八 | イスラエル共和国建国 |
聖地と旧約聖書
「主は大いなる神であって、われわれの神の都、その聖なる山で大いにほめたたえられるべき方である。シオンの山は北の端が高くて、
うるわしく、全地の喜びがあり、大いなる王の都である」(詩編四八)標高八〇〇メートル、荒涼としたユダの山地の中心にあって、
聖なるたたずまいを見せている宗教都市エルサレム、ここエルサレムにダビデが都を定めたのは、今から約三千年前のことである。
(注) | エルサレムの丘シオンは、やがてエルサレムと同義語になり、
イスラエル全体をも象徴する名となる。シオンに帰るとは宗教的内容を含み、ユダヤ民族の永年の祈りの合言葉であった。 |
全イスラエルを平定し、ユダヤ民族による統一国家を創ったダビデのもう一つの事業は、民族の歴史を記録することであった。
伝承によって伝えられたアブラハム、イサク、ヤコブと続く父祖たちの歴史を記録することであり、ここに旧約聖書の資料収集が始まった。
イスラエルの風土
北はシリア、レバノンを境とし、西は地中海、そして東はヨルダンの岩山にはさまれ、南はシナイ半島とアカバ湾に接した細長い地域、
この地を舞台にして書かれたのが旧約聖書である。後にローマ人によってパレスチナと呼ばれたこの地域は、聖書においては「カナンの地」と呼ばれている。
中近東の厳しい砂漠地帯にあっては「乳と蜜の流れる地」とも言われたように、天の恵みの豊かな地と思われていたようである。
エジプトとメソポタミアの強大国に挟まれながら、カナンに移り住んだイスラエル民族は、この旧約聖書を通して、独自の宗教文明を以後の全人類に残したのである。
族長時代
ハラン(現在のトルコ国ハルランと思われる。当時、東西通商路の中継地)に住むアブラハムに神のお告げがあり、こうしてカナンの地にやってきたアブラハムは、祭壇を築き生活を始めたと「創世記」は記している。
これが、ユダヤ民族の歴史の始まりである。激しい飢饉があり、エジプトに逃れたアブラハム一族は、再びカナンの地に戻り、遊牧生活を送っていた。
族長アブラハムには子供イサクとイシマエルがあり、イシマエルは砂漠に住み、弓矢をよくする勇者となった。その子孫がアラビア人だと言われている。
アブラハムの後を継いだ族長イサク、その次の族長はヤコブである。ヤコブの物語はアブラハムに劣らず、波乱に富んだ生涯であった。ヤコブには十二人の子供があり、彼は十一番目の子ヨセフを最も愛していた。
それを妬んだ兄たちは、ヨセフをエジプトに向かう商人に売り渡してしまう。エジプトに売られたヨセフは賢く、その知恵と魅力ある人柄でエジプト王に愛され、宰相として国を治めるようになった。
一方、カナンに住むヤコブの子らは、食料を求めてエジプトに至り、自分たちが捨てたヨセフに会い、しかも彼の情けで救われ、エジプトに安住の地を見い出すのである。
ヨセフは、イスラエルの民が必ず父祖の地カナンに帰るという予言を残して、エジプトで死ぬのである。
出エジプト記
やがて時代は進み、エジプトに住むイスラエルの民は次第に数も増え、力も強くなってきたが、それを恐れたエジプト王の迫害を受け、預言者モーゼに率いられてエジプトから逃れ出るのが、出エジプト記である。
エジプトを出てから約束の地カナンに入るまで、四十年間を荒野で過ごしたと言われている。
この旅の途中、モーゼはシナイ山において十戒を授かるのである。やがてモーゼは死に、新しい世代の指導者ヨシュアは、イスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、旧約聖書に「乳と蜜の流れる地」と記されているカナンの地に入った。
士師の時代
カナンの地を平定したヨシュアは、その地を十二支族の部落ごとに分割し、それぞれの地に定着させることにした。それは遊牧民であったイスラエルの民が、農耕の民になったことでもあった。
優れた指導者ヨシュアの死後、イスラエルの民は各部族が、それぞれの地を守って生きてゆかなければならなかった。
その民心を一つにまとめ、神との契約を守らせ導くために神が選んだのが、「士師」といわれるカリスマ的指導者のデボラ、ギデオン、サムソンなどがいた。
サムソンとデリラの有名な物語も、エーゲ海方面から移住してきた異民族との戦いの逸話の一つである。そのころ、カナンの地に定着し始めたのがペリシテ人で、エーゲ海方面から移住してきた海洋民族であるが、彼らは次第にイスラエルと敵対するようになった。
サムソンは、そのペリシテ人と戦った英雄であるが、サムソンに勝てないペリシテ人は、美女デリラを使って、サムソンから髪の秘密を聞き出し、デリラに心を許したために、サムソンは髪の毛を切られて、その神通力を失ってしまう。
捕らえられ、両眼をえぐられたサムソンであるが、髪が伸びてくると再び力を取り戻し、最後にはペリシテ人の神殿の柱を倒して、多くの敵もろともガザにおいて壮烈な死を遂げたのである。
統一王国時代
イスラエルの民は、自分たちを守ってくれる強い王をいただくことを願い、預言者サムエルに訴えた。神はサムエルに告げた。「一人の若者を遣わそう。その若者に油を注いで、イスラエルの王にせよ」と。神の預言により、サウルがイスラエル初代の王になった。
羊飼いの少年ダビデはサウル王に召し抱えられた。
ダビデは、次第にその武勇の名をとどろかせ、また人望の上でもサウルを凌ぐようになり、それを妬んだサウルは、ダビデを殺そうとする。ダビデはサウルから逃れて、ユダの荒野に身を隠した。
その後、サウルはペリシテ人と戦って戦死し、民の長老たちによって王に選ばれたダビデは、ユダ地方を治め、更にエルサレムを征服して、自ら「ダビデの町」と呼んだ。ダビデ王はペリシテ人を打ち破って、民族を救った偉大な王であった。
歳月が流れ、老いたダビデは預言者ナタンを呼んで、ソロモンを次の王にした。
ダビデの後を継いだソロモンは、父にも増して賢く、神に愛された王であった。ソロモンは自分の長生きも富も求めず、民を正しく裁く知恵を求めたので、神は更にソロモンの求めなかった富と名誉も祝福した。
シナイ半島の付け根、エイラットは紅海に面したアジア、アフリカへの玄関口で、古代からエジオン、ゲベルの名で知られたこの地に、ソロモンは港を設け、盛んに南の諸国と交易した。
北部アラビアからシバの女王が、ソロモンの富と知恵を試しにやって来た時、ここエイラットに上陸して、陸路エルサレムに向かったと言われている。シバの女王が献上した香料は、今までの貢ぎ物とは比較にならない量であったという。
預言者と捕囚の時代
紀元前九二二年ソロモンの死により、イスラエルは、南ユダと北イスラエルの二つの王国に分裂した。
その後、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロニアにより、紀元前五八六年に滅ぼされた。
この約四百年の時代が、旧約聖書における預言者と捕囚の時代と言われている。
預言者の口を通して神は、ある時は烈しい怒りを、ある時は激しい愛をあらわし、イスラエルの民の悔い改めを求めたという。
ユダヤ教の成立
預言者エレミアの預言の通り、南ユダ王国は滅ぼされ(前五八六年)神殿は破壊され、総ての財宝と多くの民が奴隷として連れ去られた。
「北から災いが来る」と言った預言者に耳を貸さなかった人々の報いであったと史書に書かれている。
残っていたユダヤ人の多くは、エジプトに逃れ、やがてバビロニアが、新興のペルシャ帝国に滅ぼされ、ペルシャ帝国のキュロス王により、故郷イスラエルの地に帰ることを許されたのは、約五十年後、紀元前五三八年であった。
イスラエルに帰り、廃墟の中に立った人々は、神殿再建に力を合わせて立ち向かい、紀元前五一五年に再建することができた。
それから続く時代は、聖書の本格的な編纂が進み、ユダヤ教が民族の宗教として確立をする時代でもあった。
ローマ時代と離散の時代
やがて新しい覇者アレキサンダー大王が、ギリシャに登場する。戦いの天才だった彼は、各地を次々と征服し、ペルシャを倒して広大な帝国を建設した。それは同時に、イスラエルにおけるギリシャ時代の始まりでもあった。
次の征服者ローマが登場するまでの二百数十年間、イスラエルはギリシャ文化の強い影響を受けた。
地中海世界の支配者は、やがてギリシャからローマに変わり、紀元前六六年からユダヤの各地で、ローマ軍に対する反乱が起きたが、いずれも鎮圧され、神殿も破壊され、イスラエルの独立は奪われた。しかし、ローマに国を滅ぼされた後も、ユダヤの民は、この地に生き続けた。
一方、各地に離散していったユダヤ人は、どこにあってもエルサレムと聖書を忘れず、メノラー(七枝の燭台)に灯を点して、祖国の回復を神に祈り続けた。
そして、昭和二十三年(一九四八)、イスラエルの人々は、再びパレスチナに、神の約束したその土地に、自分たちの祖国を持つことができた。世界各地から故国に帰還した人たちは、荒れ地を耕し、国づくりに努力した。
これは、聖書の預言の成就だと、ユダヤ人は信じている。
アブラハムから多くの国民が、興るであろうという神の約束の通り、アブラハムの信仰を基に、三大宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれた。
イエスの時代
紀元一世紀の初めは、ローマ帝国全盛のころであった。
かつてダビデ、ソロモンの時代、栄華を極めたイスラエルも次第に衰退し、今やローマの圧政下に苦しんでいた。
民族の父祖アブラハムが、唯一の神エホバに導かれ、カナンと呼ばれたこの地に住んで、すでに二千年の月日が経っていた。そのころ、民族の宗教ユダヤ教は、民族の生活の中に深く根を下ろしていた。
そして人々は、多くの預言者が約束した「救い主メシアの到来」を熱心に待望していた。
そんな願いと祈りの中から現れたのが、ナザレ(ガリラヤ地方にあるイエスの育った所)のイエスであった。
イエスは、ナザレ人と呼ばれたように、幼児から成人するまで、ナザレの村に住んでいたといわれる。
当時のガリラヤ地方は、度重なる異民族の占領によって、イスラエル民族に無縁の地になっていたが、イエスの生まれる百年前ころから、多数のユダヤ人が移住していた。
ここに住む大工、ヨセフの妻マリアが、神の使いから受胎を告げられ、エルサレムの南方約十キロの一寒村ベツレヘムで、イエスは誕生(紀元前四年ころ?)した。
成人後、イエスはヨルダン川のほとりで、パプテスマのヨハネから洗礼を受け、伝道の公的生涯をガリラヤから始めた。
「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気を、お癒しになった。」とマタイによる福音書は記している。
ガリラヤ湖は、イエス・キリストの公的生活の中心になった所で「悔い改めよ、天国は近づいた」と教えを宣べ始めたのも、この湖畔だった。新約聖書には、数々の奇跡が行われたことが記されている。
イエスは、弟子たちを連れ、ガリラヤを去ってユダヤの地方に向かった。それは、エルサレムへの最後の旅であった。
そしてエルサレムへ、イエスは、ロバの子に乗って入城しようとした。預言者ゼカリヤの言葉を成就するためだった。イエスは、棕櫚の枝を持った群衆の大歓迎によって迎えられた。
イエスは、エルサレム神域で教えを語ったと伝えられる。
その後、イエスを誹謗、敵視するユダヤ教の指導者により告発され、十字架にかけられ刑死した。
キリストは葬られ、三日目に蘇ったといわれる。
(注) | キリストとは、メシア(救い主)のギリシャ語訳であり、イエスを指す(イエス・キリスト) |
弟子たちの伝道
復活のイエスは、弟子たちを戒め、弟子たちは、力に溢れて伝道に立ち上がっていった。
イエスの教えは、ユダヤの地を越えて、世界中に広まっていった。イエスの弟子たちの信仰と活躍は、使徒行伝の中に詳しく語られている。これが、キリスト教の起源となっている。
キリスト教
イエスの死後、弟子たちは、「イエスは蘇った」という信仰に押し出されて、単にパレスチナだけでなく、広くユダヤ人以外の異邦人社会に向かって、
イエスを主なるキリストとして宣言し、その十字架の死と復活によって、いっさいの罪が許され、新しい生命が与えられるという教義を宣伝した。
このことは間もなく、ローマ帝国との間に緊張関係を生み出し、ネロ皇帝時代(紀元五四〜六八)をはじめ、幾多の皇帝によるキリスト教徒迫害となった。
その後、ローマ帝国の公認(コンスタンチヌス帝の頃)するところとなった。この事情は、この事情は、ローマ帝国にとって代わったゲルマン諸族においても変わらず、ヨーロッパ各地に広がっていった。
その後のキリスト教の宣教と伸長による要因に、ローマの司教の勢力と威信の増大がある。
協会は、数世紀にわたる神学者たちの努力によって、信条・正典を統一克服し、司教の地位を定め、教皇制が確立されていった。
カトリック教会の流れ キリスト教は、コンスタンチヌス帝の改宗以来、ローマ帝国の国教の地位を獲得し、勢力を拡張していったが、皇帝権力の介入により、政治と結びつかざるを得なくなった。
東方正教会の流れ ローマ帝国が分裂し、東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブル(現名称イスタンブール)の地位が上昇しつつあるときに、
協会の管轄区域の編成が行われ、五総主教座(総司教座)を置いたが、ローマの勢力が増大し、ローマ総主教は、教皇の名称をとるに至った。
その後、教義上の問題などで対立していた東西両教会は分離し、西方はカトリック教会として、東方は正教会として、独自の道を歩むことになった。
宗教改革
ローマ教皇を宗教的な頭とし、神聖ローマ帝国を世俗的な腕とする西方キリスト教界の内部には、はるか以前から、様々な問題が潜んでいた。
早くも十一世紀に、イタリアのダミアニが、教皇抗議の声をあげており、これに続く時代にも聖者たちが、同様の抗議を行うなど、福音と政治権力との本末転倒に対する不平が起きていた。
高級聖職者の人民搾取、庶民層の敵意感情や不満など、魔女狩り、迷信、狂信と共に当時の社会的背景を呈している。
十六世紀にカトリック教会で起こった宗教上の改革は、新しいプロテスタント諸教会と、改革されたカトリシズムを成立させた。
この改革は、宗教運動として始まったが、たちまち政治的、社会的な影響を被ることになった。
改革の発端となったのは、贖宥状(免罪符)の販売であった。
贖宥とは、金銭を納めれば罪を許され、天国に行ける、ということである。一五一七年にドイツで物議をかもした事件の直接の原因は、ローマのサンピエトロ寺院の改築を賄うべき贖宥状の発行であり、これに関連した貴族の汚職もあって、ドイツの神学者マルティン・ルター(一四八三〜一五四六)は抗議した。
たまたまここに、印刷術の発明が加わった。本来なら、わずかな写しに限られたはずのものが、短時日の内に一つの宣言書となって、全ドイツに行き渡り、醜聞に対する抗議を、カトリック教会の歴史における最大の事件へと転化した。
当時、ドイツ国内は、複雑な政治情勢もあって、ルターによって起こされた改革運動を抑制できず、内戦に苦しむことになるが、ルター派教会は、次第に発展していった。
スイス・フランス・イギリスなどの各国においても、改革者たちによって運動が進められ、改革された教会が増えていった。(これらプロテスタント諸教会でも、それぞれ教理の解釈が異なる)
この宗教改革を契機とする新旧両教派の対立は、十六世紀後半以降、フランスのユグノー戦争、オランダ独立戦争、ドイツの三十年戦争など、政治的野心も絡み、いわゆる宗教戦争を各地に起こしている。
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