ユグノー戦争と聖バルテルミーの大虐殺
ユグノーとは、フランスにおけるカルバン主義を唱える新教徒たちの呼び方。ユグノー戦争とは、一五六二年のバシー村でのユグノー襲撃事件から一五九八年の「ナントの勅令」による終結までのユグノーとカトリック教徒の間で争われた宗教戦争のことである。
十六世紀は、ヨーロッパが一つの強大な帝国から、いくつかの国家に分断され再編成されていった時代で、近代的国民国家へと変貌を遂げていく過渡期であった。
ルネサンス文化の華やかな時代とは裏腹に、いくつもの都市国家に分かれていたイタリアの覇権を巡って、フランスはスペインと争っていた。時のローマ教皇クレメンテ七世は、イタリアがスペインの国王カルロス一世の属国となることを恐れ、
フランス国王フランソワ一世と手を結んでおくことが得策と考え、教皇は、血縁関係にあるカトリーヌ・ド・メディシスをフランソワ一世の第二王子アンリ二世に嫁がせることを決心した。フランス国王にとってもこの結婚話は、渡りに舟であった。
お互いがスペインの勢力の増大を警戒し、対抗上、接近をはかった。それがアンリとカトリーヌの結婚であった。
一五四七年、フランソワ一世が没すると、アンリ二世が国王に即位した。幼い頃、スペインで人質生活を送った彼は、カルロス一世に対して深い恨みを持っていたため、幾度となく戦いを挑んだ。
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カトー・カンブレジの和議 |
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フランス国王家系図 |
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アンリ二世・死の騎馬試合 |
戦いは苦戦の連続であったが、パリ市民一丸となって、スペイン・イングランド軍に勝利した翌年の一五五九年、カトー・カンブレジの和議が結ばれた。
戦いに早めの決着をつけたのには、理由があった。アンリ二世の嫌いなユグノーたちの存在が、無視できなくなったからである。フランスは、外の敵から今度は内の敵へ、エネルギーを向けることになった。
その年、勝利を記念して行われた騎馬試合で、アンリ二世は不慮の事故死を遂げた。
跡を継いだフランソワ二世は病弱で、能力的にも政治には不向きであった。カトリーヌは、陰の実力者として地位を固めていったが、
王妃のメアリー・スチュアートの親戚であるギュイーズ一族が、軍隊とカトリックを牛耳っており、これに対立するユグノーのコンデ公とアントワーヌ・ド・ブルボン(ナバル王)たちを押さえ込んでいた。
長いイタリア戦争で莫大な借金状態にあったフランス国内で、唯一潤っていたのはカトリック教会である。これに不満の人々は、ユグノーとなり数を増し、その存在は大きくなっていった。
一五六〇年、アンボワーズ城にいた国王を奪回しようとしたコンデ公らの企みは失敗に終わり(アンボワーズ事件)、五十七人のユグノー貴族は処刑された。
ユグノーもテロリズムで報復する。この事態に対し、早急に手が打たれ、双方から代表者を招いての和平会議が開かれたが、決着はつかなかった。
騒ぎの中、国王が病死する。弟のシャルル九世が王位を継ぐことになったとき、母であるカトリーヌは、自分が神の意志により、十歳の幼い国王の摂政として、統治することを宣言した。ギュイーズ兄弟の発言力を低下させ、代わりにブルボン家が重要なポストに就いた。
カトリーヌの胸の内は、ギュイーズ派とブルボン派をうまく対立させ、自分がその手綱を上手に引っ張ることだった。彼女は、ユグノーに対して寛容策をとった。
カトリックとプロテスタント、二つの信仰を共存させるため、ポアシーで宗教会議が行われた。王令により、礼拝、説教、集会の自由がユグノーに対し認められた。
カトリーヌにとっては、宗教よりも政治が第一であり、国王の力が安定しさえすれば、どちらの宗教でもよかったのだ。宗教を利用して、彼女の政敵を無力化できればと思っていた。しかし、彼女のこの思惑を潰してしまう事件が起きた。
一五六二年、ギュイーズ公の軍隊がバシー村でミサを受けようとした時に、彼の部下とユグノーの口論から始まった騒ぎで、石をぶつけられたギュイーズ公が、その場にいたユグノーに対し、攻撃をした。多数の死傷者を出したこの事件が、フランス宗教戦争の幕開けとなった。
コンデ公率いるユグノーは、イングランドに、ギュイーズ公、モンモラシーらのカトリックは、スペインに軍事援助を要請して戦闘は始まった。この戦いは、カトリック側に着いた王軍の勝利となったが、国土と引き換えに戦いを挑むユグノーたちに対して、カトリーヌは憎悪を増していった。
自分のユグノーに対する寛大さが仇になり、今や、コンデ公、コリニー提督らに国王の地位まで奪われようとしている。
劣勢を強いられていたユグノー軍の長となったのは、コリニーであった。国王軍優勢も、徐々に形勢が逆転していった。カトリーヌは和平交渉を急がせた。一五七〇年、サン・ジェルマンにおいて和解が成立し、フランス全土に信仰の自由が認められた。
カトリーヌは、娘のマルグリットの結婚相手にナバル王アンリ(後のアンリ四世)を選んだ。ユグノーであるアンリとカトリックのマルグリットを結婚させ、ユグノーをカトリックに帰依させる魂胆もあったのだろう。そのころ、宮廷に復帰していたコリニーは、若い国王シャルル九世の心を完全にとらえていた。
まるで親子のような関係の二人だったが、国王は母親の権威の呪縛から逃れるため、コリニーは王を唆してスペインに戦いを挑むため、お互いが接近しあった。
カトリーヌは、コリニーの権力が増すのを内心、恐れていた。スペインとの戦争は無謀で、負けたらフランスはスペインの属国になってしまう。勝てば国内はユグノーの天下になり、カトリックとの争いが再び爆発してしまう。フランスの平和のためには、コリニーは邪魔であった。彼女は、コリニー暗殺を計画。
刺客に彼の命を狙わせたが、失敗に終わる。この暗殺計画の首謀者が自分であることが、シャルル国王やコリニーらに知れるのを恐れたカトリーヌは、先手を打って、コリニーがユグノーを使いパリを包囲し、ルーブル宮を占拠して国王と自分を誘拐する陰謀を企てていると、シャルル九世に告げる。
始めは信じなかったシャルル九世も、母親の真に迫った演技に、とうとう決意する。
国王の命令が下されると、素早く行動に移された。時は一五七二年八月二十四日の日曜日、聖バルテルミーの祝日である。午前四時のサン・ジェルマン・ロークセロワの鐘の音を合図に、ユグノー教徒の大虐殺が始まった。
コリニーは居室で寝ているところを、ギュイーズ公配下の刺客に起こされ、槍でめった突きにされた。虫の息の彼は、窓から投げ落とされ、首をはねられた。パリはユグノー狩りをする市民で、いっぱいだった。
大人も子供も、男も女も老人も無差別の殺戮だった。国王のもとへ引き立てられたナバル王とコンデ公は、改宗を条件に処刑を免れた。ローマでは祝砲が発射され、神に感謝を捧げたという。
大虐殺の日以来、シャルル九世はノイローゼに陥っていた。体は衰弱し、病状は悪化していった。一五七四年、彼は死んだ。ポーランド国王だったシャルル九世の弟アンリ三世が、新国王に即位した。彼は才能に恵まれ教養もあったが、独善志向が強く、カトリーヌの権力は低下していった。
そんな時、王弟エルキュールがユグノーの首長コンデ公と手を組み、反乱を起こした。アンリ三世はカトリーヌの説得に折れて、「王弟殿下の和議」により、ユグノーに対して、パリ近郊を除くすべての場所での礼拝の自由を認めた。
一五八四年、王弟エルキュールが突然この世を去った。アンリ三世には子供がいず、王位継承権は国王の従兄弟に当たるナバル王に移った。
しかし、国王の遠縁に当たるアンリ・ド・ギュイーズは、これに承服せず、ブルボン枢機卿を国王として擁立し、彼が死んだ時は王冠をギュイーズに委ねることを要求してきた。
国王・カトリーヌは、ギュイーズ派との力関係は如何ともし難く、この条件を飲まざるを得なかった。このスムール協定以後、新教はフランスでは全面禁止となった。ここにおいて、国王、ナバル王、ギュイーズ公の三アンリの戦いが始まった。
国王は、三部会の招集を利用して、ギュイーズを暗殺した。ギュイーズを支持するカトリックは怒り、逆に王権を破滅させる行動を起こした。アンリ三世は、一五八九年、狂信的カトリック教徒によって殺される。二人のアンリが死んだことにより、ナバル王はアンリ四世として即位した。
彼はブルボン家であり、プロテスタントであったが、カトリックに改宗し、カトリック教徒の懐柔にあたった。一五九八年四月「ナントの勅令」が公布され、宗教戦争に終止符が打たれた。ユグノーとカトリックの戦いは、ひとまず収まったのである。
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