大和朝廷の始まり

日本の始まり
 
 「古事記カミツコトノフミ」「日本書紀ヤマトノオフミ」によれば、日本のはじまりは神代にさかのぼる。 国家創造神話として二部構成になっており、前半はイザナギ・イザナミの男女二神を主役とした「国生み」がテーマであり、 後半はアマテラスとスサノオが主役となり、特にアマテラスの命により「国作り」がなされる。
 戦前の学校教育ではことさら強調されたこうした神話も、戦後は反動として単に荒唐無稽な作り話として無視されたが、 むしろ何らかの歴史的事実を反映しているものと見るべきである。研究によれば、イザナギ・イザナミはインド(ナンダ朝)から渡来した民族であった。 しかも夫婦ではなく共に男性で、中国北部までは一緒に来たが、のちに分かれて、イザナギは出雲へ、イザナミは淡路島に到達している。 古代の日本へはさまざまな民族が渡来したが、大和に高度な文化をもたらした最初の民族はインド系の人々であった。
 日本の国作りは、天照大神あまてらすおおみかみの命によりなされたが、アマテラスとは個人名ではなく太陽そのものを指す。 この太陽神をまつるものの子孫が天皇として国を治め、民を治めたのである。「記紀きき」には、初代天皇を神武じんむ天皇と記載されているが、 その実在性には疑問がある。御肇国天皇はつくにしらすすめらみこととして確実に実在したのは、第十代崇神すじん天皇である。 ハツクニシラス(御肇国はつくにしらす)とは、初めて国をおさめたという意味、スメラミコト(天皇すめらみこと)とはスメル(シュメール)から来た貴い人(ミコト)の意味である。

大和の国作り
 
 アマテラスを太陽神として祀り、火(陽)の巫女(イラン・ルーマニアの混血)が神の言葉を伝えた。そして、その血統のものが大和に現れ、 初めて国家と呼べる形を作ったのが、崇神天皇である。神を尊ぶ天皇(ただしこれは後世の人がおくりなしたもの。 和風諡号わふうしごうは、御間城入彦みまきいりひこ、当時はミヤトゥと呼ばれていた)といわれる所以ゆえんである。
 古代の各部族には、リーダーとして霊感の優れたものがおり、霊能力の勝るものがあちこちの部族をも支配した。崇神は御間城入彦と呼ばれるごとく、よその国から入ってきた入彦 (彦は日の御子みこ、天照大神の子孫の意)であり、ペルシャ系(アケメネス朝ペルシャのカンビセス二世の血統で、この後を継いだのがダリウス大王)である。
 崇神の最初の妻は、紀伊国きいのくに荒河戸畔あらかわとべの女、遠津年魚眼眼妙媛とおつあゆめまぐわしのひめでその子どもが二人、 男子は豊城入彦とよきいりひこ、女子は豊鋤入姫とよすきいりひめである。 この系統のものは一番霊感が強く、日の御子を祀って斎宮いつきのみやが神託(神の言葉)を伝えた。これが大和の国(大和朝廷)の始まりである。
 豊城入彦は父である崇神の命で関東に派遣された。浦和駒場に礼拝所を置き、関東一円の経営にあたった。そして調神社つきじんじゃという名が残されているように、 物資(調ちょう)を集め、現在の川口から送って、後方から大和朝廷を支えた。
 豊鋤入姫は「倭姫巡行記やまとひめじゅんこうき」(通史では倭姫は垂仁すいにん天皇の女とされているが、 「倭姫巡行記」は豊鋤入姫の事蹟じせきである)に見られるように、各地に勢力をもついろいろな民族を押えるため、霊感を戦わせた。 特に強力であった丹波たんばのユダヤに嫁いだ。この丹波族は、「契約の箱」を持って日本に入ったユダヤの本統であり、丹波の岩井村がその中心である。 豊鋤入姫はのちに伊勢に赴き「豊受大明神とようけだいみょうじん」として祀られている。
 人の幸せに貢献する真の意味の皇統を伝えるのはこの血統のみである。
 「三種さんしゅ神器しんき」は天皇の地位の象徴とされている。これは「記紀」にいう 「八咫鏡やたのかがみ」「天叢雲剣あめのむらくものつるぎ」「八尺瓊曲玉やさかにのまがたま」ではなく、 はるかに時代は下って七世紀、中臣鎌足(実は天智天皇)が制定した百済の風習である。(ちなみに剣は物部もののべの剣、鏡はイスラエルの鏡、曲玉は鎌足が持っていた玉である)

豊城入彦と浦和
 
 トヨキイリヒコとは、後世つけられた名で、当時の名は「シェキ」といい、通称は「サク」であった。この「サク」は、サンスクリット語で「知恵のあるもの」という意味である。
 父である崇神天皇の当時の名は「ミヤトゥ」といい、庶民からは「スター」と呼ばれていた。
 豊城入彦は、浦和の駒場を本拠地と定め、神託を行うための「礼拝所」を置いた。その当時は、この駒場からさまざまな地方へ通ずる道が広がっており、交通の要衝ようしょうとなっていた。
調神社
 
 崇神朝を支援するために、豊城入彦が関東一円から物資を調達した際に、集まった物資を貯蔵・運搬する起点とされたのが、 浦和市岸町きしまちに現在も残る調つき神社である。当時、調神社の周辺は現在と違って海岸であった。そのことを示す形跡がいくつか残っている。
 一つは調神社の近くに海の神様である金比羅様こんぴらさまがあること、もう一つは岸町小学校の建設基礎工事で、杭が傾いて非常に打ちにくかったことである。 これは、岸町周辺は地盤がゆるく、昔は陸地ではなかったことを推測させる。
 さらに、付近には海岸を連想させる「根岸ねぎし」「高砂たかさご」などの地名も残されていて、当時、 岸町のあたりが海岸であった可能性はきわめて高い。
 また、浦和付近には豊城入彦の父である「ミマキイリヒコ」(崇神天皇)にちなんだと思われる地名が残されている。
 尾間木おまき(現在の浦和市)
 美女木びじょぎ(現在の戸田市)
などである。
 これらの地名は、ともに音韻が変化して現在の呼び方になったが、元は「ミマキ」であったと思われる。

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