大和朝廷の簒奪者
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日出ずる国を求めて |
紀元前五ニニ年、通史によると、アケメネス朝ペルシャの王カンビセス二世の次の王位を、マゴス祭司のガウマータが初代王キュロス二世の嫡子を名乗って簒奪しようとしたが、
ダリウスと貴族六人の同志の手でガウマータは殺害され、同志の支持によりダリウスが次の王位に就いたことになっている。だが実際は、
ダリウス自身が王位を簒奪したのであり、本当の王位継承者はダリウスの追手から逃げ、東方へ向かった。太陽は東から昇るから太陽神崇拝である彼は、
太陽に追い縋る思いで、東へと「日出ずる国」を求めて逃げた。そして、彼の血統は日本へ渡ったのだった。
時代は移り、三世紀中頃から四世紀の初め、大和では幾つかの有力部族が覇権を巡り相争っていた。混乱の中、多くの部族に推挙され、一人の大王が立った。
崇神天皇である。崇神天皇は、ダリウスに王位を簒奪されたアケメネス朝ペルシャの本当の王位継承者の血統である。崇神天皇を快く思わぬ部族は次の大王位を狙い、
日嗣の皇子である豊城入彦の命を奪おうとした。
通史では崇神天皇の第一王妃は御間城姫で、その子の活目入彦が、
皇位を継いで垂仁天皇として立つことになっているが、実際は、活目入彦は御間城姫の連れ子で、崇神天皇の子ではなく養子である。
このことから、御間城姫は、連れ子を大王位につけようとする敵の部族と通じていたと考えられる。
本当の第一王妃は紀伊国の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛である。
第ニ王妃は東海地方に勢力をもつ高尾張族の大海媛で、御間城姫は第三王妃である。
豊城入彦と豊鋤入姫は、崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛の子で、豊城入彦が本当の皇位継承者である。
ところが、御間城姫は自分の連れ子の活目入彦を皇位につけるために、崇神天皇の留守をついて追手を放ち、第一王妃の遠津年魚眼眼妙媛を暗殺する。
正体のわからぬ刺客に妻を殺された崇神天皇は、悲嘆にくれた。
「遠津年魚眼眼妙媛は神の妻になる乙女だった。年魚は清流に棲む、神の妻なる巫女は、また身を清く澄ます水の乙女であった。
遠津年魚眼眼妙媛はその名の通り目眩むほどの美貌であったから、我ごときの眼に留まり、神の妻ならぬ人の妻に堕ちてしまったのか。
国津神は怒り、だから媛は年端もゆかぬ兄妹を残して、早々と根の国へ去らねばならなかったのか。」
そして、いよいよ敵の目は成長した豊城入彦に向けられた。崇神天皇は高尾張族を頼り、供を伴わせて豊城入彦を高尾張族の地へ逃すが途中、
高尾張族の本拠も間近い金谷の手前で敵の追手に襲われ、双方とも多くの犠牲者を出す。主力を失って正面からの戦いは不利と考えた追手は、
作戦を変更し間者を潜入させるのだった。ようやく高尾張族の地に辿り着いた皇子一行だったが、ほっとしたのも束の間、敵の執拗な追撃の手は、
この地まで及び、第ニ王妃の大海媛を伴って再び東国の武蔵をめざすことになる。
ようやく目的地に着いた皇子一行は、そこで本拠地を築き、民の心をつかんだ豊城入彦は物資を調達して、それを大和に送り大和朝廷を東から支えるが、
追手の忍ばせた間者にそそのかされた高尾張族の一部の裏切りにあい、豊城入彦は深手を負い、能勢の山まで逃げてくるが、そこで命が尽きてしまう。
時代は移り、鎌倉幕府の成立期の話になるが、春華門院昇子内親王は、建久六年(一一九五)八月に、
後鳥羽天皇と中宮宜秋門院任子の間に生まれた皇女である。
また、任子は関白九条兼実と九条兼子との間の娘である。昇子は誕生してから数ヵ月後の建久六年十二月に、
八条女院の猶子となる。
八条女院の猶子として養育された昇子内親王は、比類なき美しさであったという。建暦元年(一ニ一一)六月二十六日、八条女院が崩御した際、
昇子内親王は八条女院の莫大な所領の大部分を相続し、その後、通史では昇子内親王も同年十一月八日に十七歳で崩御したことになっているが、
実際は、これには外祖母の九条兼子が関わっている。
昇子内親王が八条女院より相続した莫大な所領を奪い取るために、九条兼子が画策して昇子内親王を暗殺したのである。
また、春華門院昇子内親王には子があって、その子とは、皇室法華経を仁和寺で説いた法親王のことである。
歴史は、およそ周期をもって循環する。遠津年魚眼眼妙媛は春華門院に、豊城入彦は皇室法華経を説いた法親王に対応するのである。
いずれも闇に葬られた血統である。カンビセス二世は崇神天皇に対応している。また、ダリウスは垂仁天皇に、御間城姫は九条兼子に対応している。
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