登呂遺跡
登呂遺跡
約2000年前の弥生式の住居
高床式倉庫
太平洋戦争も終わりに近づいた昭和十八年、静岡県静岡市南部において、兵器製造工場建設のため
掘削中
くっさくちゅう
の田畑から遺跡が発見された。
これが弥生時代(紀元前二世紀〜後三世紀までの約五百年間をいう)の集落と水田遺跡として有名になった
登呂
とろ
遺跡発掘のはじまりである。
静岡地方に米が伝えられたのは弥生時代中ごろ(紀元前後ころ)のことと考えられ、そして米づくりの村が数多くつくられるようになり、 そのうちのひとつが登呂のむらであった。
登呂のむらには十二軒の家と二棟の倉庫がつくられ、むらの南側には水田が広がり、約六十人ほどの人が住んでいたようである。
人々は鉄の刃物でたくさんの木の道具をつくり、木の農具を使って水田を耕やし、時には、海や山へでかけて、魚や、けものをとって日々をすごしたことであろう。
登呂のむらのような稲つくりを営むむらは、用水の便の良い低い土地につくられ、川などから水を引いていた。
そのため、どうしても水害を受けやすく、水田の遺跡を発掘すると、ほとんどの遺跡から水害のあとをみつけることができる。
登呂の水田の跡でも何回かの水害のあとがみられ、遺跡全体も洪水によって運ばれた砂利におおわれていた。水害に苦しみつつ百五十年ほど続いた登呂のむらのくらしも、 ある年の秋の台風による洪水で生活できなくなってしまい、人々は仕方なくむらを捨てて、いずこへと立ち去っていった。しかし、 このころになると各地に「
邪馬台国
やまたいこく
」のような小さな国が生まれて、戦争が起こることもあり、 登呂むらが捨てられた理由の一つに、このようなことがあったのかもしれない。
豆知識
静岡人のルーツ
日本人の基本的ルーツは、ビルマ・雲南・華南系の農耕の民と言われているようであるが、登呂遺跡に残された米粒は、 丸い日本型(ジャポニカ)と言われるものであり、静岡人のルーツもこれらのことから、タイ・ミャンマー(旧ビルマ)方面と思われる。
トップページへ戻る