鬼物語

鬼とは何か
 
 絵に描かれた鬼や芸能の鬼は、皆裸で虎の皮のふんどしをして、頭に一本または二本、三本の角をもっている。
 しかし、このような怪物が実在するはずもないし、オニはオン(隠)のなまりで、姿のないものをいう。 これが今のような姿を持つようになったのは、仏教の影響や、丑寅うしとら(北東)に鬼門があることから思いついたのであろう。
 「宇治拾遺物語うじしゅういものがたり」では、一つ目小僧やノッペラ坊のような化け物まで、鬼と呼ばれている。 これは中国で「」は、死者の霊魂を指すものなので、日本でも死霊を鬼と呼んだからである。
 また、大和国家が征服したところの中で、激しい抵抗を受けた場所が、後世になって鬼の住むところ、怨霊や荒ぶる神の出現するところとされている。 そこには、大きな神社が建てられていて、征服された側の首長クラスの氏族が神官になっている。
 「古事記」や「風土記」で、天皇の勢力に抵抗する土着勢力は、土蜘蛛つちぐも夜刀神やとがみ国栖くずなど、恐ろしい魔物として表現された。
 このように鬼には、想像上の鬼と、時の権力にまつろわぬ・・・・・(服従しない)者を恐れて鬼とみなした二つの系統がある。

鬼にされたタタラの主
 
 源満仲みなもとのみつなかは、多田氏を称したが、多田氏のタダは、タタラの宗家を意味する。満仲は、多くの零落したタタラを吸収合併したようだ。
 しかし、吸収された弱いタタラの主は、落ちぶれて、ダダラ法師、ダイダラボッチとなり、果ては鬼と変身して行った。
 多くのタタラの主は、鬼とさげすまれるほど落ちぶれたが、一方の満仲や頼光は、権力者側に属する長者として生き残った。
 ダイダラボッチは、ダイダラボウともいうが、大太法師だいだぼうしのことである。東日本に伝えられた巨人伝説である。 ダイダラボッチは、強力ごうりきで富士山を一晩でつくり、榛名山はるなさんに腰掛け、利根川の水でスネを洗ったと伝えられている。
 まぶたが赤くただれることをただれ目というが、爛れるという文字に、火扁ひへんが付いているのはタタラに関係がある。
 フイゴで起こした火を用いる製鉄法なので、火花が飛び散り、目を痛めるのである。
 「出雲国風土記」に登場する鬼が、一つ目なのは、産鉄に用いた火花が、片眼を潰したのであろう。
 落ちぶれたタタラの主は、自棄やけになって遊興に狂い、力を持て余して富士の山をつくったりしたと伝えられたのだろう。
 柳田国男の「山人やまびと外伝資料」には、「先住民の大半は里に下って『山人』となった。 山人の先祖のうち、征服者天津神あまつかみに帰順した者は国津神くにつかみといわれ、 その霊は国魂・郡魂として祀られたが、反抗者は荒神、邪神といわれ、『不順鬼神』とされた」とあるように、鬼追放は征服側のおごりの産物である。

吉備津彦とウラ伝説(桃太郎伝説の原形)
 
 桃から男児が生まれたという話に、鬼退治の英雄説話をからませたのが、昔話の「桃太郎」である。この説話が伝説化した形で語り継がれてきた所に、高松市や犬山市の周辺、紀州や吉備きび地方がある。
 吉備には、吉備津彦きびつひこ鬼ノ城きのじょうにたてこもるウラを退治したという英雄説話が伝承されており、そのウラが鬼のイメージを鮮烈化して、 「桃太郎」の鬼に重ねられて人々の心をとらえたとき、この地方では「桃太郎」の伝説が始まったようだ。
 岡山駅で吉備線に乗り換え、二十分ほどで吉備津駅きびつえきがある。南東に三つの峰を持った吉備の中山なかやまが横たわっている。 その山すそに向かって参道を数百メートルたどると、吉備津神社きびつじんじゃがある。 これは備中びっちゅう一の宮であるが、中山の北東の山麓には備前びぜん一の宮の吉備津彦神社きびつひこじんじゃがある。どちらも主祭神は吉備津彦である。
 吉備津彦は、孝霊こうれい天皇の皇子みこで「日本書紀」によると、 崇神朝すじんちょう四道将軍しどうしょうぐんの一人として山陽道に派遣されている。 また「古事記」によると、異母弟の稚武彦命わけたけひこのみこととともに吉備国きびのくに征討せいとうに現れた皇子である。 それが吉備一族の始祖的存在に粉飾されて御友別命みともわけのみことでなく、主神の座を占めている。
 本殿から長い回廊を渡ると、御釜殿おかまでんがある。ここにはウラ(温羅)が祀られている。ウラは異国の鬼神だと言われているが、新羅または百済から渡来した王とか王子という説もある。 身長が一丈四尺(四メートル強)もあるウラは、貢物を奪ったり、人をさらったりしたので、鬼として恐れられた。
 彼を退治するために吉備津彦は、吉備の山に陣をしき、鬼ノ城にたてこもるウラと数回戦った。変幻自在の術にたけたウラは、きじとなり、こいと化して逃げようとしたが、 吉備津彦はたかとなってこれを追い、ついにウラを降参させたといわれている。
 この辺り一帯には、ウラの伝承説話を裏付けるもの(鯉喰こいくい神社、矢喰やぐい神社、血吸川ちすいがわなど)がある。

古代吉備の製鉄技術
 
 鬼ノ城には、山頂付近を取り巻くようにして、三キロ近くにわたって神籠石こうごいしに類似した塁状遺構があるし、五つの水門跡も発見されている。 この石塁・土塁は、朝鮮式山城だという説もある。ウラの妻となった阿曽姫あそひめについては、阿曽村あそむらはふり(神主)の娘だと伝承されている。 阿曽は鬼ノ城山の東の裾野地帯の村だが、ここに住む鍛冶屋かじや鋳物師いもじをウラの子孫だとする言い伝えもある。
 「まがねふくきび   (注)   」と歌われたように、古代の吉備は、真金(鉄)の一大生産地であった。
 
   (注) 真金吹く=吉備にかかる枕詞
 
 阿曽の随庵ずいあん古墳からは、鍛冶具の鉄槌かなてこ砥石といしたがねなどが発見されている。 岡山市沢田の金蔵山かなくらやま古墳からは、開墾用と見られる鋳鉄製の斧形品やかまくわなど多数の鉄製品が出土している。
 また、造山つくりやま古墳の陪塚ばいちょう榊山さかきやま古墳からは、 朝鮮の文物ぶんぶつと推定される銅製の馬形帯鉤うまがたたいこうが見つかっている。
 後に天平時代になると、備中の賀夜郷かやごうとか大井郷おおいごうから鉄や鍬が貢納されたことが平城宮址へいじょうきゅうしから出土した木簡によって知られている。 さらに「延喜式えんぎしき」によると、伯耆ほうき美作みまさか備中びっちゅう備後びんご筑前ちくぜん対馬つしまの諸国からは、 調ちょう雑物ぞうもつとして鉄・鍬などが貢納されている。
 また、吉備津彦の放った矢でウラが片目を射られたとする伝承には、鍛冶部かなちべの神の天目一箇命あまのまひとつのみことのイメージと重なるものがある。 この神は、「日本書紀」によると、大物主神おおものぬしのかみ作金者かなだくみとして奉仕したことになっている。 鍛冶屋や鋳物師の間では、古くから鍛冶かじの神を一つ目の神として信仰している。
 したがって、谷川健一も示唆しているように、鬼ノ城麓、阿曽の地の鍛冶の徒・鋳物師がウラ伝説の担い手として介在したことが一応考えられる。 それにウラを鬼とした伝承には、鬼ノ城が修験しゅげんのメッカであったこととも深くかかわっているようだ。
 古代、吉備の地に製鉄技術をもたらしたのは、朝鮮からの渡来人だったであろう。ウラは、その中心人物で、一時期、大きな勢力を誇っていたのかもしれない。
 そして、古墳時代、吉備に大きな勢力を植えつけた者たちの経済的・軍事的な力の背景をなしたものが、ウラに象徴される製鉄事業であったことが考えられる。
 さらには、その鉄器文化に目をつけて、中央勢力(大和の王権)が武力征覇に乗り出した、という事件を投影したものが、吉備津彦によるウラ退治物語だったのであろう。
狂言の「節分」に出てくる鬼
夫の留守番を守っている女に惚れこんだ蓬莱ほうらいの島の鬼は、すっかり宝を巻き上げられたあげくに、「福は内、鬼は外」と放り出された。

鬼門のはなし
 
 家相上嫌う方位に「鬼門」(東北)があるが、これは鬼の出入りする方角とされる。
 東北方向をなぜ「鬼門」というのか、五行説ごぎょうせつで検証する。
 五行説には、「相性あいしょう」と「相剋そうこく」という二つの関係がある。 よく「相性がいい」というが、それは「五行相性」のことである。五行相性とは、「木火土金水」の中で、二つの五行が隣り合っていれば、お互いに助け合う良い関係にあることをいう。
 一方、「五行相剋」とは、「木火土金水」の中で、二つの五行が一つおきになっている時に、お互いに背を向けて傷つけ合う悪い関係にあるという。
 すなわち、水火、火金、金木、木土、土水が五行相剋となる。
 また、「八卦はっけ」は、万物の現象を八つのかたち (けんしんそんかんごんこん)に表したものである。
 五行説の相性と相剋を八卦に当てはめてみると、「艮」(東北=土)のところだけが両隣りの坎(北=水)、震(東=木)に対して相剋(この場合、土水、木土)となる。
 そのため、八卦の艮は、五行説によって相剋の極みとして、その方角まで忌み嫌われるようになったのである。これによりうしとら(東北)の方向が「鬼門」とされたのである。

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