南北朝論争の遺産

明治天皇像
 南北朝統一後も、どちらが正統であるかの論争は連綿れんめんと続き、後々にまで余韻を残した。
 両朝の争いは、六十年で終わってはいなかったのである。
 南朝正統の声も絶えるどころか、江戸末期には勤皇きんのうの志士たちを動かし、彼らは、それを原動力とし、尊皇論そんのうろんを唱え、明治維新を成功させたとする研究家もいる。
 ここに、一つの興味深い仮説を、ご紹介しよう。

明治維新の背景
 
「ええじゃないか」
伊勢神宮の御札が降る
という噂から各地に 
広まった集団乱舞  
 幕藩体制の危機は、江戸末期になると深刻となっていった。特に天保てんぽう期(一八三〇~一八四四)に入り、全国的な天災、疫病、飢饉ききん等を契機として、各地で大規模な農民一揆、村方騒動むらかたそうどう、都市打ちこわしが頻発していた。
 こうした危機に直面して幕府では、老中、水野忠邦みずのただくにを中心として天保の改革を行い、体制の立て直しを図ったが、失敗に終わった。これに前後して、諸藩でも改革が行われた。 長州、薩摩などでは、有能な人材の育成を行い、藩財政の再建や軍事力の増強に成功し、幕末の政局をリードする基盤が築かれていった。
 一方、このような世相を背景に、水戸学※  から生まれた尊皇論、すなわち幕府を倒し、天皇中心の国づくりを目指すという考えが広まり、各地の勤皇の志士を育てることになった。
 ※水戸学---水戸藩が行った「大日本史」編纂から
生まれた学問

孝明天皇暗殺
 
孝明天皇像
 
皇妹和宮の降嫁
 
 当時は、孝明天皇の御世であったが、尊皇派にとっての理想の天皇像は、現実の天皇とは大きく異なった。その上、孝明天皇の妹和宮かずのみやが十四代将軍徳川家茂いえもちに嫁いだことから、朝廷と幕府が親密になったため、勤皇の志士たちにとって、孝明天皇は討幕の障害になり始めた。 また、このまま徳川幕府の支配が続くと将来、日本は外国に圧倒され、属国にされかねないと討幕を考える者もいた。
 このように、公卿くぎょう、長州藩、薩摩藩の有志が中心となり、まず徳川家茂を、次に孝明天皇を刺殺しさつしたと考えられる。また、証拠を隠すために、天皇の死因は疱瘡ほうそうであるとし、暗殺を手引きした者をはじめ、事実を知る者をも暗殺した。 彼らは、孝明天皇の子、睦仁むつひと親王を次の天皇に立てることも考えたが、生来病弱で、やはり幕府寄りであったため、この睦仁親王をも暗殺したという説もある。

薩長同盟の真相
 
 犬猿の中ともいわれた薩長両藩は、実は南朝再興をスローガンに同盟を結んでいたとの説がある。長州の松下村塾しょうかそんじゅくでは、南朝の末裔である大室家おおむろけを守護する人材を育て、南朝再興を説いていたという。いわば、大室家の親衛隊養成学校である。 また、薩摩の西郷は、後醍醐天皇の大忠臣であった菊池の子孫であった。このように、両藩は南朝に縁深く、南朝再興という共通の悲願によって、薩長同盟が結ばれたというのが真相ではないだろうか。

天皇すりかえ
 
 公卿や薩長の志士を中心とする天皇すりかえは、上層公家の間では噂になり、よく知られていたので、その口止めとして、後に彼らに華族の称号を与えた。大室家の長男である寅之祐とらのすけは、家を出た後、長州の兵と共に京都御所に入り、そこで睦仁親王とすりかわり即位し、明治天皇となったと考えられる。
 暗殺された睦仁親王の許婚いいなずけであった一条勝子いちじょうかつこは、そのまま睦仁親王になりかわった寅之祐の正室となった。 このような経緯から、本来は皇后こうごうと呼ばれるべきが、先代の皇后を指す皇太后こうたいごうの称号が用いられ、昭憲しょうけん皇太后と呼ばれたといわれる。

西南戦争・西郷隆盛の動機
 
 薩長同盟の際、南朝再興を誓った伊藤博文は、憲法を制定するにあたって明治天皇の出生を隠し、北朝についた上層公家たちをすべて華族として重用した。これに対し西郷隆盛は、完全なる南朝再興を追求しようとし、次第に政府から離反していったといわれる。その結果、明治十年に西南戦争を起こしたが、えなく明治政府に破れた。
 
西郷隆盛の顔
西郷の顔の上半分は弟の
従道つぐみちに、下半分は
従弟である大山いわお
似ていたことを利用
して、この肖像画は
描かれた。
東京上野に西郷の銅像が
建ったとき、西郷の妻が
「うちの人はこげな人じゃ
なか」と叫んだことは
有名である。一体これは
服装がだらしなかった
からであろうか。それとも
実際とは異なった顔で
あったからであろうか。
意外にも西郷の肖像画は死後に描かれたもの
ばかりで、写真が嫌いで一枚も撮らせなかった
といわれている。

南北朝論争
 
 彼らは、天皇をすりかえたことを隠すために、天皇家は万世一系であるとしたらしい。これは、明治天皇が北朝の系統であることを強調するための操作であったが、これは明治天皇の意志に反したものであった。
 明治天皇は明治十年、後の後小松天皇である貞成さだなり親王を「父不詳」とした系図を作らせた。これは「看聞御記かんぶんごき」と「椿葉記ちんようき」に、貞成親王の父は足利義満であると記されていることを利用したものであると考えられる。 これによって、北朝の系譜を引く孝明天皇の子であるはずの明治天皇は、自己の血統の正しさを否定する危険を犯してまで南朝正統を主張するという矛盾が生じた。
 
豆知識 マッカーサーは知っていた
 第二次世界大戦後、連合軍総司令部(GHQ)の総司令官であったマッカーサーは、占領時代に日本の皇室について調査を行い、多くの資料を没収していた。また、大室寅之祐の生家のものがマッカーサーに対して、日本の皇室について、よく調査するように請願書を出していたという事実もある。 以上の点からも、一般庶民が天皇家は万世一系であると信じていた頃、マッカーサーはすでに明治天皇の出生の真相を知っていたと考えられる。事実マッカーサーは、南朝の子孫であると自称する熊沢なる者が、終戦直後に皇位継承権を主張して現れると、アメリカの大雑誌にこの事を掲載し、日本の皇室の正統性に疑問があることを示唆していたのである。

大室寅之祐
 
 大室・・という名は、「高貴な方を囲まっている」という意味があったらしい。その名残なごりとして、大室家の前を大名行列が通る時は、「下に、下に。」という声がなかったそうである。
 この南朝の末裔である大室家の長男として、寅之祐が生まれた。寅之祐は、大の相撲好きで、力士隊の隊長であった伊藤博文とは親しく付き合っていたので、しばしば、この力士隊と相撲を取ったり、時には軍事教練に加わっていたという。また、明治天皇即位後も、侍従を相手に相撲を取ったことは、よく知られる話である。
 寅之祐は、生家に戻ることはなかった。家を出る時、「毛利の家にまんじゅう・・・・・を作りに行く。」と言ったというが、このまんじゅう・・・・・とは饅頭まんじゅうではなく、萬寿まんじゅという猿舞いなどの芸能を指したものであるという説もあるが、定かではない。
 

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