空想小説の忍者たち

 忍者の代名詞といってもいい猿飛佐助さるとびさすけは、「立川文庫」と共に生まれた。
 出生地は信州。鳥居とりい峠の麓に棲む郷士ごうし鷲尾佐太夫わしおさだゆうせがれで、いつも山中で猿と戯れていた。その様子を甲賀流忍術の名人、戸沢白雲斎とざわはくうんさいに見出され、みっちり忍術を仕込まれる。 やがて、狩猟に来た真田幸村さなだゆきむらに召し抱えられ、真田家と豊臣家のために活躍する。悪逆をらし、豪傑剣士ごうけつけんし翻弄ほんろうし、明るく楽しい。
 この佐助の登場によって、忍術使いのイメージが変わった。それまでの忍術使いは、陰惨で向背こうはい常ならぬ悪役であり、概して権力、体制側につく。 しかし、佐助は義理人情厚く、快活明朗であり、弱者に味方して権力、体制に刃向かう。もし忍術を悪用したら、たちまち術が破れるというユーモラスな空想小説であった。
 霧隠才蔵きりがくれさいぞうは「難波戦記なんばせんき」に顔を出すが、やはり「立川文庫」によって有名になった。
 才蔵は伊賀流百地三太夫の弟子で、初めは山賊の頭領であったが、佐助に術較じゅつくらべで敗れ、説得されて「真田十勇士」の一人に転向する。この両者の動き、総じて立川文庫を見て気づくことだが、豊臣方(大坂)=善=甲賀流忍術、徳川方(江戸)=悪=伊賀流忍術といった図式がうかがえる。 これは、同文庫が大阪で発生したことと無縁ではない。三百年にわたり、徳川体制に押さえつけられていた大阪人の鬱屈うっくつが、遅まきながら巷談こうだん(世間話)によって噴出したようである。
 石川五右衛門いしかわごえもんも出てくる。百地三太夫の弟子で、霧隠才蔵とは兄弟分である。しかし、五右衛門は佐助の忠告を聞かず賊として、覚えの忍術を使い、そのあげく、釜煎かまいりにされる。 素性は、浄瑠璃じょうるり、芝居、稗史類はいしるい(小説など)によってまちまちであるが、所伝の多くは五右衛門を義賊ぎぞく扱いにしている。
 釜煎りがあったのは本当らしく、林羅山はやしらざんの「豊臣秀吉譜」や、「山科卿やましなきょうの日記」に記されている。こうなると、五右衛門は実存の人物ということになるが、忍者としての所伝は虚構に覆われている。
 このような例に天竺徳兵衛てんじくとくべいがいる。 徳兵衛は播州高砂ばんしゅうたかさごの商人で、寛永かんえい十一年と十四年に天竺(インド)へ渡り、仏跡を探ったり貿易をしたりした。「渡天記とてんき」という報告書も残している。 これが芝居になると、途端に忍術、というより妖術使いにされる。「天竺徳兵衛韓話からばなし」が有名だが、なぜかガマを使う。
 ガマといえば、児雷也じらいやがいる。原作は中国の「諧史かいし」にある我来也がらいや説話で、これが翻案ほんあんされて自来也じらいや―児雷也になった。
 登場人物は、蛇を使う大蛇丸おろちまる、ナメクジを使う少女綱手つなでで、要するに三すくみ(注)  であって、それぞれの術を競い合うところが見ものである。
 これが、古い忍術のイメージでもあったのである。
 昭和三十九年、突如として現れた忍術小説の作家に、山田風太郎がいる。
 仮に、今世紀初頭の立川文庫による忍術小説群を代表作の名をとって猿飛忍法とし、現代のものを風太郎忍法として、この構成を比較してみると、その時代の思潮的な性格が描き出せる。
 両忍法ともに、主として戦国末から徳川時代中頃(十五~十七世紀)までを舞台とする時代小説である点においては、一致している。思想的背景は、猿飛忍法では儒教思想を基本とする徹底した勧善懲悪かんぜんちょうあく主義である。一方、風太郎忍法は近代的な自由主義を基調としている。
 したがって、猿飛忍法では、忍者はスーパー・マン(男)であったが、風太郎忍法はスーパー・ウーマン(女)が自由自在に登場する。いわゆる「くの一」忍法である。ここに忍術小説の近代化を読み取ることができる。
 
(注) さんすくみとは、
 蛇はナメクジを恐れ、ナメクジは蛙を恐れ、蛙は蛇を恐れてすくむということ。要は、三者が互いに牽制けんせいし合って、だれも自由に行動できないこと。
 
豆知識 立川文庫
 大阪の講談師・玉田玉秀斎たまだぎょくしゅうさいが口演した速記を、立川文明堂主人・立川熊二郎が出版したもので、揚げ羽の蝶の金版入り、定価二十五銭。
 明治四十四年に「一休禅師」を第一編として「水戸黄門」「岩見重太郎いわみじゅうたろう」「大久保彦左衛門」と次々に出していったが、次第に種がなくなり、題材に詰まっていた時に思いついたのが「忍びの術」であった。こうして出来上がった猿飛佐助が爆発的人気となり、当時の読書界を風靡ふうびした。
 
忍者
 
   かくれみの
 「かくれみの」という特別の忍び道具があるわけではない。「みの」は、わらで作った雨具で、現在も農家では、雨中の作業合羽として用いている。
 忍字で「かくれみの」というのは、身を隠す「みの」から転化して、身を隠す忍具そのものをいう。
 次の忍話は、その応用を示した例話である。

 まず、敵の城中に忍話でいう「くの一」、即ち女を潜入させて事を運ぶ。
 味方の中から、利口な梅(仮名)という女を敵将の奥方の小間使いとして忍び込ませる。賢く、そして小回りの利く才女であるから、すっかり奥方のお気に入りとなって、奥方は「お梅」でなければ夜も日も明けぬ、という可愛がりようである。 ある日、梅は奥方に「実は実家さとの方に長持ながもち(木櫃きびつ)を置いていますが、この頃は着替えにも不自由しておりますので、ちょっと取りに帰っても、よろしゅうございましょうか。勝手ながらお願い申し上げます。」 と伺いを立てると、何はさて目に入れても痛くない「お梅」のことであるから、奥方は「それはさぞ不自由であろう。私ともあろうものが、つい気が付かなんで悪かった。宿下がりを差し許す。早うお戻り。」という次第である。 そこで梅は、朋輩ほうばいにも愛想よろしく、かねて顔見知りの門番達にも打ち明けて、それぞれの挨拶をして帰る。
 さて、それから味方の指図に従って、いよいよ一人の忍者が長持の中に隠れることになり、長持を二重底にして、上段には衣類をいっぱい重ね、下段に忍者が潜んで、二人の人夫が担ぎ、梅がそれに付き添って堂々と門番には、にこやかに会釈して、長持と一緒に忍者を城内に運び入れたのである。

 この場合、「かくれみの」の役目を果たしたのは長持であって、このように思慮綿密しりょめんみつな忍計をめぐらして、人間を隠す道具を考案するのが、「かくれみのの術」といって、忍学の奥芸とされていたのである。

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