忍者の宗家・諸流

忍び組
 
忍者の襲撃
 徳川時代初期に「忍び組」と呼ばれる集団が、組を作って江戸城の表門と裏門を警備していた。表玄関である大手三門を守っていたのが甲賀組であって、大奥を護ったのが伊賀組であった。これは、また総称して忍び組ともいわれたが、出身地別に伊賀者・甲賀者とか伊賀衆・甲賀衆とも呼ばれた。

伊賀組の起こり
 
 天正十年(一五八二)の本能寺の変で、織田信長が無念の最期を遂げた時、信長の招きで堺に出てきていた徳川家康は、孤立無援の窮地に落ちて、一時は自決を図ったが、側近に励まされて心を変え、 様々の苦難の末、木津・宇治の両川を渡り、甲賀から伊賀の山中に入り、両国の土民に導かれて、伊勢の白子浜から海路三河へ逃げ帰った。これを伊賀越えの危難という。
 この時、護衛の任に当たった伊賀の二百人を尾張の鳴海にし寄せて厚遇したが、江戸城に入ると、この二百人には、四谷よつやの地に千貫文かんもんの土地を与えて定住させた。その位置によって南伊賀町、北伊賀町と呼ばれた。
 統領の服部半蔵には、江戸城の西門外に屋敷を与えられたので、この西門を「半蔵門」と呼んだ。

伊賀組の役目
 
 家康は伊賀組に江戸城大奥の護衛という重要な役目を与えた。その後、江戸城の城郭施設が整備され、三代将軍家光の頃になると、伊賀組の職分も明確に規定されて、大奥護衛のほか政務の一部まで担当するようになった。
 すなわち大奥制度の確立と共に、財務の一部にも携わり、大体、次の四つの職務をつかさどった。

 明家敷あきやしき
 明家敷預ともいうが、将軍家が各処に持っている御殿や大名の屋敷で、あきや・・・となっているのを処理する事務官の補佐役である。 ここに番頭ばんがしらが三人いて、その下に伊賀者百十名が勤務したのである。これは大財務の役目であって、大名や出入りしている商人に対して相当に幅を利かせた。

 御広敷おひろしき
 御広敷とは、将軍の奥方をはじめ、四百名にのぼる様々な階級の女官が住む大奥にある男子の詰所であり、御広敷門から出入りする。大奥の一部ではあるが、御錠口おじょうぐちという厳重な境界があり、別に一郭をなしている建物である。 もちろん大奥を守護するのが本務であるが、時には奥方の代理として、寺院などに派遣される大奥女中の輿こしにも付き添った。

 小普請方こぶしんかた
 小普請奉行こぶしんぶぎょうに属している事務書記であって、大奥や紅葉山もみじやまの歴代将軍の霊所みたまやや、増上寺、浜御殿の営繕をつかさどる役目である。 奉行の下に伊賀組頭が三人いて、その配下に伊賀者普請方ふしんかた十名が勤務した。これは、元禄二年に新設されたものである。

 山里警備
 山里番は山里やぐらの中を警備した伊賀者をいった。

 こうして、徳川三百年の泰平が確立すると共に、江戸城裏門の親衛隊の役割を与えられた伊賀組は、次第に本来の任務から離脱し、幕政の一部に参加して官僚的な、しかも世襲の地位を獲得して、押しも押されもせぬ社会的・経済的地位を築いたのである。

忍術流派の所在
 
今は亡き甲賀流14世宗家・藤田西湖せいこの遺品から発見された、各忍術・流派の所在
 青 森 中川流
 山 形 羽黒流
 新 潟 上杉流、加治流
 栃 木 福智流、松元流
 長 野 芥川流、青木流、伊藤流
 山 梨 甲陽流、武田流、松田流、忍甲流、戸隠流、忍光流
 神奈川 北條流
 愛 知 秋葉流、一全流
 福 井 義経流
 滋 賀 甲賀流
 三 重 伊賀流、理極流、辻一務流、服部流、瀧流、義盛流、内川流、瀧野流、澤流
 奈 良 飛鳥流、秀郷流、九州流、楠流、蒲生流
 和歌山 名取流、新楠流、雑賀流、根来流、紀州流
 岡 山 備前流
 広 島 福島流

甲賀組の起こり
 
 徳川家康と甲賀武士とのゆかりは古く、かつ深い。幼少時代に人質として今川家で養育された家康は、今川義元が桶狭間で惨敗してから、彼本来の意識を取り戻し、信長と結んで公然と今川勢に反旗をひるがえした。まず手始めに今川の一族、鵜殿長持うどのながもちの三河西郡上郷の城を攻略した。 この時、家康は家臣が甲賀武士と親交があるのを幸いとし、城攻め総指揮の松井左近次忠次(後の松平周防守康親すおうのかみやすちか)の献策を入れて、忍びの術を利用しようとして伴与七郎資定すけさだ・鵜飼孫六ら二百八十名の甲賀武士団を招いた。
 永禄えいろく五年(一五六二)三月十五日の夜、忍びの武士団は城内深く潜入して、数ヵ所のやぐらに火をかけて、わざと声をたてず乗り込んで斬りまくった。鵜殿軍では何が何やらわからず、城内にかえちゅう(裏切り)の反乱と誤り、算を乱して敗走した。 守将しゅしょう長持は伴与七郎により打ち取られ、鵜飼の部隊は長持の子、藤太郎長照ながてるを生け捕りにした。この大勝は家康の運命の転機を促す契機をつくったものであって、翌年二月六日付、伴与七郎宛の感状が今も甲賀武士の子孫である石部町(滋賀県甲賀郡)の岩根家に伝わっている。
 甲賀組制度の直接の原因となったのは、何といっても関ヶ原の戦いである。石田三成は機先を制して、徳川方の関西の拠点である伏見城を突いた。急を知った家康は、江州ごうしゅう(近江の国)瀬田の城主山岡景隆かげたかの弟、道阿弥どうあみに訓令して甲賀武士の決起を促した。 まず第一陣として百人、その後、続々と続いて約三百人が救援に駆け付けたが、伏見城はついに陥落して山岡道阿弥の弟、源太景光かげみつ入道甫庵も討ち死にし、甲賀武士も多く戦死した。
 関ヶ原の大勝の後、家康はその功績をたたえ、戦死者の子孫を任用して、甲賀組を編成して与力十名、同心百名とした。
 そして、統率者山岡道阿弥に近江の国の九千石を与え、その内四千石は甲賀組百名の給分としたのである。
 道阿弥は山岡備前守景友かげともといって、美作守景之みまさかのかみかげゆきの四男であり、前記の瀬田の城主景隆の弟である。
 甲賀組は青山に集団を造って、甲賀町と呼ばれた。
 甲賀組の創設記念日は、徳川家康に招致された甲賀隊が、伏見籠城ろうじょう戦で戦功をたてた慶長けいちょう五年八月一日である。 郷土甲賀では毎年祭典を催して、その日を記念すると共に、戦死した祖先の霊をなぐさめたが、二百五十年に当たる嘉永かえい二年には、幕府から特に追善供養の資として銀七十枚が与えられた。
 滋賀県甲賀郡の各地 ー 甲南町野田の慈眼寺じげんじ、水口町宇田の唯照寺ゆいしょうじなどに現存する墓は、その時の供養碑である。

甲賀組の役目
 
 伏見城の防御戦で討ち死にした甲賀武士の子孫が、甲賀組として家康の江戸入府と共に、その護衛のため特別任用されて、本丸と正門である大手三門を守護する大役に任じられた。
 江戸城の本丸は、将軍の居館きょかんであると同時に政庁であった。表と奥に分れていて、表が政庁で、続いて中奥があり、ここが将軍の住居である。大奥は夫人と上臈じょうろう中臈ちゅうろう、年寄以下数百名に達する女子勤務者の居室きょしつであった。 本丸の正門は大手門である。この門は最も厳重に固められて、順々に三つの門があって大手三門といった。第一は大手門で、ここを通ると下乗門、第三が中の門で、これをくぐると本丸の玄関に入るのである。
 大手三門の守りは、十万石以上の譜代大名が勤仕する習わしであった。甲賀百人組は三門にそれぞれ分属したが、その余のものは殿中の警備にも当たった。今も皇居内に百人詰所つめしょの建物が残っている。
 甲賀組の給分は(組頭が五千石)初めは四千石を分配していたが、天和二年(一六八二)に七百俵を増給されて、与力は八十石、同心は一人当たり三十俵二人扶持ににんぶちとなった。

根来組
 
 甲賀組・伊賀組のほかに、根来組ねごろぐみというのがあった。
 天正十三年(一五八五)三月、豊臣秀吉は当時、堂坊二千七百を連ねて隆盛を誇り、僧兵の勢威は比叡山を凌いで第一といわれた紀州の根来寺を焼き討ちにして、一山灰燼いっさんかいじんと化した。
 その後、学僧たちは京都、長谷などに法灯を継いだが、敗残の僧兵は諸国を流浪していた。
 そのころ、浜松城にいた徳川家康に召し出され、その年は十六人、翌天正十四年には二十五人というように逐次任用され、成瀬正成なるせまさなり(後の尾張犬山城主)に預けられた。それが機縁となって、家康が関ヶ原・大坂陣に出動した時も随行し、伏見浜松丸の警備に当たった。
 次いで寛永三年(一六二六)に百人組となって江戸詰を命ぜられた。最も僧形ではいかがかというので皆総髪となったが、氏名は法号を用いて僧俗兼用であった。
 給分は時によって厚薄もあったが、定給としては二十俵二人扶持であり、非常勤として神事の際は、神輿みこし供奉ぐぶしたようである。

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