サンカと忍者

 サンカ中興の祖といわれる乱裁道宗あやたちみちむねは、その支配下の一部の者たちに、古代以来の「仙法せんぽう」を専門に研究させた。その中心は「軽身かるみ」の術で、これが後年「忍術」と称されるようになったという。 また、道宗はサンカ人口の増加から、これまでの山中の生活が次第に困難になってきたため、部族の分散を計り、各地方に分散していくサンカを三つの階級に分けて、それぞれの指導者を定めた。その指導者(頭領)が後になって 「透破とうは(みすかし)」「突破とっぱ(つきさき)」「乱破らんぱ(あやたち)」という親分名で呼ばれるようになったという伝承がある。
 これを三つの「区分けち」というのだが、サンカにとっては区分の誤認が最大の侮辱とされていた。忍者組織では、上下の区分(むしろ差別)が絶対であった。この厳しい掟は、サンカ集団とジプシー集団に共通している。
 戦国時代には、セブリの忍び筋が「斬り合い屋武将」に抱えられて、物見・国見あるいは樹蔭このかげなどと称されて、特殊な隠密武装集団が情報収集や後方かく乱、ゲリラ戦などに活躍した。
 信長、秀吉、家康、信玄などは争ってサンカの忍び筋を抱え、隠密刺客をうまく利用して野望を遂げた。
 三角寛みすみかん但馬田地火たじまたじべ但馬多治彦たじまたじひこから聴いたサンカの「血絶史伝ぢげことつ」の中で特に興味あるのは、 戦国時代、豊臣秀吉に包囲殲滅せんめつされた因幡いなばの北山城にまつわる話である。
 木下藤吉郎(秀吉)の父親弥右衛門は、「樹蔭」を「木下」と変えたサンカの出で、箕作みづくり、簓削ささらけずり、茶筅ちゃせん作りはいうまでもなく、 彼らの修行地であった丹波で、軽身かるみ、忍び、逆撫さかなで(相手を失神させる術)など更に国見、物見まで修行した。 その流れを汲む者が藤吉郎の一味に加わって城攻めに働いたという。
 しかし、秀吉は自分の素性が箕作りサンカであったことを、ひた隠しに隠して家筋を飾り暴露を恐れた。そして、懐柔できなかった者をことごとく殺していた。
 つまり、秀吉が最も恐れていたのが、因幡多治比郷いなばのたじひのさとの北山城主、丹比孫之丞たじひまごのじょうであった。秀吉は彼を攻める途中、丹波、丹後で六百余人、因幡、伯耆ほうきで中国征伐と称して六百余人を殺し、 生涯を通じて自分の素性のばれるのを防ぐために、随時殺したサンカの数は三千余人に及んだという事が、サンカ社会に伝承されている。
 
豆知識 忍術の文献
 忍術が完成されたのは戦国時代で、様々な流派が生まれたが、これらの流祖や体系を記したものとして「甲賀流忍術秘書」などがあり「近江輿地志略おうみよちしりゃく」にも記述があるが、いずれも仮託の説が多い。 延宝四年(一六七六)、藤林保武ふじばやしやすたけがまとめた「万川集海まんせんしゅうかい」は、甲賀流、伊賀流の総合伝書として知られている。

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